スタートフロムゼロ written by 高柳和之

2003年1月号 連載第12回
2003年3月号 連載第14回
2003年4月号 連載第15回
2003年6月号 連載第17回
2003年8月号 連載第19回

2004年3月号 連載第25回
2004年4月号 連載第26回
2004年5月号 連載第27回
2004年7月号 連載第29回
2004年8月号 連載第30回

月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2003年1月号 連載第12回
新年あけましておめでとうございます。
2003年を迎えました。本年が輝かしい年になりますようお祈り申し上げます。

【抽象論と具体論】
 知人から「文章に具体論が少ない」との指摘を受けました。まさにその通りです。ここのところ、精神的な抽象論ばかり書いてきたような気がします。
 読者の皆さまがサンライズに求めているものは、何なのでしょう。珠算に関係する読み物として純粋に楽しんでくださる方もおられるでしょうが、読者の大半を占める珠算指導者の多くは、教室の繁栄に関する情報やヒントを求めておられると推察します。
 多くの教室が活気にあふれ、充実した授業を行えば、珠算界も盛り上がるでしょうし、そうなることがサンライズ発行の最大の目的なのです。
 皆さん、それぞれが懸命にやってはいるのでしょうが、これでよしということは決してありません。奥の深さは無限です。より密度の濃い、効果的な授業を行うことが必要なのです。
 それを目標としたときの問題点は2つあります。1つは、指導者の心のあり方であり、もう1つは、授業における具体的な指導上のテクニックです。
これらは、車の両輪のようなものであり、どちらが欠けていても前進することはできないのです。
 ただし、優先されるのはやはり心のあり方です。より良い指導をしようという謙虚さ熱意、行動力があるということは、常に敏感なアンテナを張り巡らしているということですから、指導に必要な情報が飛び込んでくるのです。
 また指導上のテクニックとは、多くの引き出しを持っていて、その中から、時と場合、生徒の性格や心理状態に応じて、いかに適切な情報を提供できるかということです。心がそっぽを向いていたのでは、指導云々を語ることはできません。
 ということで、生意気ながらも、まずは具体的な指導テクニックよりも、抽象的であっても、それに先んじる心のあり方を、書いてきた次第です。
一人でも生徒がいる限り、1円でも授業料をもらっている限り、プロとしてのプライドを持って最高の指導ができるような、心でありたいと思います。

【現状把握】
 いつの頃からか、「誉めて育てる」ということが教育の主流になっています。誰でも、叱られるよりは誉められることの方が気分は良いですし、大筋ではこのことは正しいはずです。しかし、この言葉を「甘やかす」と混同してしまい、「鍛える」ことを忘れてしまっている人もいるようです。楽しく通ってもらうことは大変重要なことですが、それだけで良いというものではありません。
 今でこそ少なくなりましたが、その昔は、威厳のある父親が絶対的な権力を持っている家庭が数多くありました。その頃の方が、礼儀正しく、しつけの行き届いた子どもが多かったような気がします。
 兄弟姉妹が少なくなり、親の目が届くようになれば、理屈の上ではより良い家庭教育ができるはずです。果たして現実にそうなっているでしょうか。
多くの子どもが小さいうちから学習塾に通っていながら、学力レベルの凋落は目を覆うばかりです。知識を増やしたり、テストで良い点を取るということだけにこだわり、その土台となる根本的な部分に意識が向いていないからなのです。また、中には、成績だけ良くて人間性、社会性が伴わないという人も多く見受けられます。
 景気の長期低迷が続いているとはいうものの、まだまだ飽食の時代であることに変わりはありません。当たり前ですが、珠算教室に通う子どもたちは皆、帰る家があり、毎日3度の食事ができるのです。つぎはぎの衣服を着ている子どもも見かけません。
 最近では、高校生はもちろんのこと、小中学生までもが本来、不必要なはずの携帯電話を玩具として持っているのです。確かに便利ではありますが、それを当然と思ってしまうところに問題があります。
 子どもの頃に劣悪な環境におかれることは好ましくありませんが、恵まれすぎた環境というのも人格形成上、好ましくはないように思います。
また、物質的豊かさと反比例するように、精神的退化が顕著な昨今です。一時代前と、同年齢の子どもを比較した場合、現代の方が明らかに精神年齢が低いように思います。子どもだけではなく、大人までもが幼児化しているのではないでしょうか。近年の成人式における一部の人間の無軌道ぶりは言うまでもなく、若い親たち、さらには我々も含めて、総幼児化傾向にあるような気がしてなりません。
 真面目に努力することが「格好悪い」とされる風潮すらあります。世の中が、どこか狂っています。
 このような時代に、子どもたちを預かり、珠算を通じて教育することは、並大抵のことではありません。その分、大いにやり甲斐があるとも言えます。
 悪口ばかりを並び立ててしまいましたが、子どもにはもともと何の罪もありません。そんな子どもを増やしてしまったのは大人の責任です。今こそ、変わらなくてはいけないのは大人です。接し方次第で子どもたちを方向転換させることは可能なのです。 
 社会が意識転換をしなくてはなりません。その社会を構成しているのは個々の人間です。我々にできることは、ほんの小さなことですが、まずは通ってくる子どもたちに、珠算を通じて、正しい教育を施すということしかありません。

【苦言と甘言】
 前項では、話が大きくなりすぎたので、実際の珠算教室の現場に目を移しましょう。通ってくる子どもたちはいろいろです。また、その子たちを指導する先生方もまたいろいろです。どんな指導をしようと個人の自由と言ってしまえばそれまでですが、それでは進歩も発展もありません。
 中には、「やりたくない」「早く帰りたい」という生徒もいます。こうした生徒たちを、「もっとやりたい」という気にさせる授業を目標とする必要があります。また、そうさせられるかどうかが指導者の腕の見せ所なのです。
 基本的に子どもに迎合することは避けなければなりません。甘言ばかりの機嫌取りが日常化してしまうと教室が教育の場ではなくなってしまいます。
時には子どもたちに苦言を呈することも、教育上必要なのです。厳しさがなくて、成果を上げている珠算教室を私は知りません。

【静寂の中での授業】
 効果的な授業を行うにあたり、もっとも大切なことは教室の雰囲気を作ることです。練習中は「静かである」というのは大前提です。意識を集中し、真剣にやるのに、騒々しいところは不向きです。
 そんな当たり前のことをわざわざ書くのか、と思われる方もいるでしょうが、最も基本的な「静寂」の状態を作れない指導者もいるようです。
賑やかな雰囲気の教室を、ある日突然、静かにするのは難しいでしょう。しかし、何日か何週間かをかければできることなのです。
学校などでも、騒がしいクラスというのは、先生が生徒になめられているというのが最大の原因です。
 最初の段階では、私語を注意するということも必要です。注意というのも、1〜2回で効果のない場合は対象となる生徒を真剣に見据え、厳しい口調で行うのです。それでも解決しない場合は、罰則を設けるのです。それも、その子にとってイヤなことでないと効果はありません。プリント1枚余計に与えるとか、授業時間を延長するとか等々・・・・。
 注意をしたらやめてしまうのではないか、という意識は捨てるべきです。本気で教育しようという気があるのなら、邪念は持ってはいけないのです。
権力をかさに、威嚇をして静かにさせることには問題がありますが、ある段階では必要です。
 一度、静かな体制を整えてしまえば、ほとんど注意は必要なくなります。賑やかなワンパク坊主が入ってきても、教室内の静かな練習には同化します。もちろん、誰一人として、遊んだり、練習の手を休めたりはしなくなります。せいぜい、入学間もない子が、周囲の真剣にやっている姿を珍しそうに見回すことがあるくらいです。
 こうした状況を作ることは、基本中の基本です。ところが、幼児が多く、随時制でそれぞれがバラバラのところをやっていては、静かな環境を作ることは難しくなります。また、教室のあちこちで「わかりません」の声が飛び交い、指導者が汗だくで走り回るような授業は避けなければなりません。しっかりと理解をさせずに練習をさせるとわからない生徒が続出します。これではつまらないでしょうし、ストレスの溜まる生徒は騒ぐしかありません。
 一つ上の段階に進めるには、前のところをしっかりと理解させ、十分な反復練習を積むことが必要です。試行錯誤をしながら、「やっとできた」というのを「できた」ことにしてはいけないのです。
 静かな授業はつまらないものではありません。空気が張り詰めた静寂の緊張感の中で、真剣に問題に取り組めば、同じ内容の授業であっても効果は上がり、生徒たちは充実感を得られるのです。
 目先の楽しさだけを追い求めていたのでは、その場しのぎにしかなりません。喧噪の中で授業をされている方は、年頭に当たり、「静かな授業」の実現を目標にしてはいかがでしょう。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2003年3月号 連載第14回
【初対面で好印象を】
 年間を通じて、最も人の出入りの多い時期となりました。珠算教室もご多分にもれません。
 胸をときめかせ新しくそろばんを習い始める人もいれば、去っていく人もいます。
 別れはつらく寂しいのが常ですが、避けられるものではありません。誰も去らず、入るばかりだったら、今頃、珠算教室は生徒が溢れて溢れて、大変なことになっているでしょう。そんなことを書いていても始まりません。去っていく人は、気持ちよく送り出してあげるのが一番です。やめた生徒が、時々遊びに来てくれるような環境を作ることが望まれます。
 去る者は無理して追わず、新しい出会いに目を向けましょう。新しい出会いは、中途からの転入生や、高学年からのスタートである程度の知識を持っている新入生を除けば、そろばんに関しては、みんな「無」の状態です。まさしく、スタートフロムゼロなのです。
 ベテラン指導者にとっては今までに何百人、何千人と迎えた新入生の中の一人でしょうが、その子にとっては生まれて初めてのそろばんとの出合いです。教室にも指導者にも慣れておらず、緊張感に満ちています。もしかしたら、その子が将来「そろばん日本一」になるかもしれません。総理大臣になるかもしれませんし、ノーベル賞をとるかもしれないのです。無限の可能性を持つ子どもたちの将来は予測できません。
 鳥類には、生まれて初めて見た動くものを親と思いこむ本能があり、これを「刷り込み現象」といいます。人間はそんなことはありませんが、やはり第一印象は大切です。まずは、最初に「そろばんっておもしろい」「先生っておもしろい」と思わせることが重要です。この段階では、そろばんや指導者に対しての強い印象はなく、子どもなりに「これから習うそろばんとやらは一体どんなものなのか」「これから付き合うことになる先生とはどんな人物なのか」と値踏みをしている段階でしょう。最初の「つかみ」でグッとこちらに引き寄せられるかどうかが初日の重要課題です。
始める前から鼻息が荒く、やる気満々という子ばかりであればいいのですが、なかなかそうはいきません。親にむりやり連れて来られたという態度があからさまに出る子もいます。指導者の考えによって、最初の接し方はいろいろでしょう。私の場合は、入学前に見学来た時など、親にあらかじめ次のような話をします。

【親への予備知識として@】
 せっかく通っていただくなら、上手になった方がいいですよね。実は、子どもが上手になるかどうかって、親次第なんです。冗談ではないですよ。本当なんです。といっても、家でそろばんを教えてほしいということではありませんのでご安心ください。技術指導はこちらに全面的に任せていただいて結構です。ご家庭では、精神的なサポートをお願いします。実はこのことが一番大切なんです。
 どんなことでもそうでしょうが、長く続けていくうちには、楽しい時期とつまらない時期があります。これは誰にでもあるのです。楽しい時は特に問題はありませんね。放っておいても喜んで通いますから。つまらなくなった時が問題なんです。この時こそが、親の出番なのです。子どもが「つまらないからやめたい」と言ったときに、「じゃあ、やめなさい」ではそこで終わってしまいます。上手になるためには、いくつもの壁を越えていかなくてはなりません。子どもって、それで成長していくんです。
 最近、子どもたちに忍耐力が欠けているって言われますよね。確かに最近はガマンの足りない子、多いですよ。忍耐力をつけるようなしつけをしなければ、そうなってしまうのは当然です。でも、私、思うんですけど、忍耐力が欠けているのは、むしろ、子どもよりも親の方かもしれません。「やめたくなったらやめなさい」では、何をやっても身につきませんよね。
 今まで見学に来られたお母さんの中には、子どもに対して「ねぇ、どうするの? やってみる? やってみない?」なんて聞く方が結構多いんですけど、私はこういうのに反対なんです。風邪をひいて医者から薬をもらった時に、「飲む? 飲まない?」なんて普通は聞かないでしょう。「薬を飲みなさい!」でいいんです。親が必要と思ったことは、有無を言わさずやらせるべきです。小さいうちはそれでいいんです。
 子どもの意思を尊重すべき、と言うと聞こえが良く物わかりが良さそうですが、子どもは、価値があるか、必要かどうかということよりも、好きか嫌いかで判断するんです。好き嫌いは、簡単に変わりますから長続きしにくいですね。
 10年ほど前のことなんですが、高校生で10段に合格した女の子がいたんです。10段って一応そろばんの最高段位で相当すごいんです。この生徒、そこにたどり着くまでに、何回もやめそうになった時があったんです。小2でそろばんを始めたんですけど、最初の頃はなかなか乗算九九が覚えられずにいやになったんです。小3の時は2桁の除算が難しくていやになりました。また、中学に入った頃は勉強や部活で体力的にきつくなってそろばんを続ける気力もほとんどありませんでした。その度に本気でやめようと思ったんだそうです。
 高校生になってから、「何で今までやめなかったの?」と聞いたことがあります。そうしたら「お母さんがやめさせてくれなかったの。『やり始めたことを途中でやめるなんて許さない。そんな子は何をやっても中途半端になる』って叱られてすごく恐かった」と言ってました。「じゃあ、お母さんが『やめていい』って言ったらやめてたの?」と聞くと、「絶対やめてたよ。鬼のようなお母さんだと思ってすごくいやだったけど、そんなお母さんだったから10段とれたと思う。今ではすごく感謝している」と。
 最初に、上手くなるかどうかは親次第と言いましたけど、そういうことなんです。親の支援がなければ、良い結果って出ないんです。
 ところで、最近はいくつもの習い事を掛け持ちしている子が多いですよね。いくつも習ってどれもモノにならないという場合がほとんどです。1つのことも満足にできないのに、あれもこれもと手を出しても良い結果は得られないでしょう。集中力をつけることが望ましいのに、わざわざ集中力を分散させているようなものです。子どもがどんなことに向いているかわからないので、とりあえずいろいろなことに挑戦させてみたいという気持ちはわかります。悪いことではないですね。親にしてみれば、何でもできる子の方がいいですからね。
 でも現実には、大変難しいことです。体はひとつしかありませんし、与えられている時間にも限りがあります。そんな中で、2つも3つものことで秀でるのはほぼ不可能でしょう。
 大人を見渡してみても、これだけは人に負けないという特技を1つでも持ってる人って少ないですよね。野球選手とサッカー選手の両方を目指そうと思っても無理なんです。両方のプロっていませんから。陸上と水泳の両方でオリンピック出場を目指してもたぶん無理でしょう。アメリカでは、たまに野球とアメリカンフットボールの掛け持ちプロがいますが、本当に稀な例外です。バスケットボールのスーパースターのマイケル・ジョーダンも一時期、野球に転向してました。でも結局、メジャーリーグには上がれませんでした。日本でも、スケートの選手が自転車競技選手を兼ねることがありますが、あれは使う筋肉が似ていて、普段からスケートのために自転車の練習を取り入れているからできるんです。それでも両方で秀でることはほとんどありません。
 別に、プロだとか超一流を目指すわけではないから、という考えももちろん理解できます。大部分の人はそうですし、それが普通でしょう。要するに、ひとつのことを深く追求した方が良いのか、浅く広くいろいろなことを経験した方が良いのか、ということなんです。これには、一長一短ありますね。
 一つのことを追い求め、一定レベル、と言っても相当高い域ですが、そこに達すると、それまで見えていなかったものが見えるようになってきます。それが、他のことにも通じ、生きる上での自信になり精神的支柱ができるのです。反面、物事を自分なりの視点で決めつけて判断してしまう場合もありますね。言葉は悪いですけどバランス感覚の悪い『専門バカ』もいます。もちろん、そうなっては困りますよね。
 一方、いろいろなことを広く浅く行う人は、表面的には視野が広がります。これは、物事をかたよらず総合的、大局的に見ることができ、良い部分ではあります。しかし、これもまた、そこそこのレベルに達することが必要で、少々かじった程度ではそうはいきません。器用貧乏で終わってしまうのはまだいい方で、大抵はほとんど何も身につかずに終わってしまいます。
 一番良いのは、一つのことを中心において、他のことにも多少は目を向けることでしょう。優先順位の1位はちゃんと決めておいた方が良いでしょうね。すべてが並列では、メリハリもなく、先々になって何も残らないという結果が見えています。「トップになることなんて期待していない。平凡でいい」という考えはお勧めできません。トップを目指しても平凡で終わってしまう人が多い中で、最初から平凡でいいというのでは、平凡以下にしかなりません。
 今日のお話、絶対に正しいということではありません。私が個人的に思うことであって、いろいろな考えがあってもいいんですけど。
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 文字にすると結構あるものです。実際には、途中から話が脱線することが多いのですが、主旨はこんな感じです。一般論を書き連ねたので、肝心のそろばんの話を書きましょう。

【親への予備知識としてA】
 では、お母さん、せっかくですから少しそろばんの話をしましょう。そろばんを習うことは、子どもたちがいろいろなことを経験する中で、最優先にするだけの価値は十分にあります。
 授業を見ていただいてわかるように、誰もしゃべりませんよね。子どもって、やり方によってはこんなに集中できるのです。
 そろばんの特長は、いろいろあるんですが、やはり、物事を「正しく」「速く」処理することが一番でしょう。計算することはもちろんですが、如何に効率よく物事を行うかという訓練なんです。
 百聞は一見にしかずですから、まずは子どもたちのやっているところを見てください。ねっ、暗算で答を書きっぱなしでしょう。頭脳が超高速回転してるんです。答を書いている間に頭の中では次の問題の答ができてます。だから、続けて書けるんです。(※というような生徒がいれば話がはやいのですが、いない場合はこんな話はできませんのでこの部分は省略です)
 ちょっと、子どもたちのやっているところを見てください。今は、初心者クラスですから、そんなに上手な子は来ていませんけど、みんな一生懸命でしょう。こういった練習を通じて、毎日少しずつ成長していくんです。
 普段の生活の中で、1秒を惜しんで物事を行う機会ってあまりないですよね。この体験が貴重なんです。持っている能力を最大限に発揮して、それをさらに伸ばしていくことができます。
 子どもが学校の宿題をやるにも、大人が仕事をやるにも、何でも「正しく」「速く」できることって、素晴らしいと思いませんか。多忙な時代だからこそ、処理能力が問われるのです。
 そろばんって、学習効果がはっきりわかり、努力した分だけ確実に上達します。勉強というよりも、ゲーム感覚で能力が伸ばせるんです。子どもたちってテレビゲーム好きですよね。最もやさしい一面をクリアしたら、次の画面に挑戦、それもクリアしたらまた次の画面、だんだん難しくなっていきます。あれと同じです。そろばんも一つ段階を進む度に、達成感や満足感が得られます。特に、初歩の段階は例外なく楽しいんです。「1+1」から始まって、誰でもマルがたくさんもらえます。中には「世の中にこんなに楽しいものがあるなんて知らなかった」って言う子もいるんです。
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 こういった話も、親からの質問やその場の雰囲気であらぬ方向に行ってしまうことがあります。また、親だけでなく授業中には生徒にもよく話をします。正しい心構えができてこそ、上達につながるのです。そんな話を書きましょう。

【新入生・初心者への話】
 きょうは練習の前にお話するからね。よく聞いててよ。お話をちゃんと聞ける子が上手になるんだよ。
 学校では、真面目に勉強する子も、遊んでばかりの子も学年が進むのは一緒だね。弟がどんなにがんばっても、お兄ちゃんより先に小学校を卒業するのは無理なんだ。当たり前だよね。
 ところが、そろばんはそうではないんだ。先に入った子は、今日から習い始める子よりも上手だね、今のところは。でも、油断してると抜かれることもあるんだ。真面目にがんばったら上手になるし、そういう努力のできない子は上手にはならない。わかりやすいね。
 上手になるのと、ならないのとではどっちがいい? そりゃあ、上手になった方がいいに決まっているよね。今日は、上手になるためのお話をするから、よ〜く聞いててね。
まずは、お休みしないこと。これが一番! お休みの多い人は、上手にはなれません。それから、真面目に練習すること。当たり前だね。薬を一粒飲んだら、突然計算ができるようになる、というようなことがあったら便利だけど、残念ながらそんなものはありません。とにかくちゃんと練習することです。そろばんは、真面目に続けると楽しいけれど、一生懸命やらない人にとっては楽しくないんです。
 どうせ習うのだったら1番を目指そうよ。高い目標を持って、それに向かって努力することが大切なんです。つらいこともあるだろうけど、
 みんなで励まし合って乗り越えていこうね。
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 私、普段の授業はこんな丁寧な言葉でやっているわけではありません。生徒の名前を呼び捨てにすることがほとんどですし、「あのなぁ」とか「おいっ」とか、「こらっ」とか、どちらかというとかなりお下品なんです。

【文体について】
 毎月、簡潔さと明快さを求めて「である調」で書いていましたが、書いていて偉そうに感じましたので、今月は気分を変えて「です・ます調」にしてみました。まぁ、言葉だけ丁寧にしても、内容が伴ってなければ大した意味もないとは思いますが、単に試してみただけです。
 文体に限ったことではありませんが、言葉や文章、あるいは直接対面して接する場合に、相手に与える印象というのは本当に大切なことです。指導力をつけることよりも、教材を作ることよりも、お金儲けをすることよりも、人間性を高めることの方が最優先されるべきと思います。このことを最低必要条件として、そこから様々な面を伸ばしていきましょう。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2003年4月号 連載第15回
【命の大切さ】
 先日、妻の買い物に付き合ってスーパーマーケットに行きました。私にとっては、年に1度あるかないかの非日常的なできごとなのです。その日はたまたま、何も行事の入っていない日曜日で、朝からずっとパソコンに向かっており、夕方にふと気分転換がしたくなったのです。
 妻にとっては極めて日常的な食料の買い出しだったのですが、すべてが珍しく、ついキョロキョロしてしまう挙動不審の私でした。
 食料品売り場でいろいろと感じるところがありました。まずは豊富な品揃えに、今さらながら感心してしまいました。現在、地球上には60億人を超える人々が存在しますが、そのうち食糧不足で飢えている人間の数は8億とも12億とも言われています。そう考えると、今の私たちは本当に幸せだと感じます。ちなみに、飢えている人の一方では、栄養過多の人々もほぼ同数いるそうです。
 私たちの身近にあるファーストフード店では、作ってから一定時間を経過した商品は捨ててしまうとのこと。お客に作りたてのものを提供しようというサービス精神は立派ですが、私にはどうも納得できません。どんな事情があるのかわかりませんが、表面的な事実だけを見ると、何と愚かなことなのだろうと思わずにはいられません。
魚売り場に、サンマが3匹ずつ包装され、ズラリと並んでいました。人間は皆それぞれ違った顔をしているのだから、サンマもきっと同じだろうと思い、よ〜く眺めたのですが、どれも同じに見えてしまいました。
 こういう時に、私はサンマの気持ちを想像してしまいます。海で(楽しく?)泳いでいたものを、一網打尽に捕らえられて、こんなところに並べられるなんて、きっと悔いの残る不本意な一生だったことでしょう。私がサンマだったらそう思うに違いありません。
 思いはいろいろと巡ります。料理屋などに行くと“活け作り”なんてものがあります。全身の身を削がれながらも、なお生きようとして、口をパクパクさせ尾を動かします。魚には痛感神経がないといわれていますが(痛感があるという説もあります)、生きたまま水槽からまな板の上に運ばれ、包丁で切り裂かれるのは決して良い気分であろうはずはありません。
 “躍り食い”に至っては、生きたまま口の中に入れて、噛んだときのプチプチとする歯触りがいいと言われます。人間って何と残酷なのでしょう。そこまでする必要があるのでしょうか。私はついつい逆の立場だったら、と考えてしまいます。皆さんは、初めて“活け作り”を見た時や、“躍り食い”を知った時のことを覚えていますか? 少なからず、衝撃を受けたはずです。それが慣れてしまうと特別な感慨は薄れてくるのです。恐ろしいことではないでしょうか。
 牛肉の売り場に移動しました。パックに入った牛肉が大量に並んでいます。ここでも私は、生前の牛を想像してしまいます。食用になる牛たちは、と殺場に連れて行かれ、殺されて解体されるのです。最近はガス麻酔で眠らされてから処理されるそうです。
 伝え聞いた話ですが、昔は麻酔も使わずいきなりギロチンだったそうです。処刑?の順番を待つ牛のひとみは悲しくウツロで、涙を流すこともあったとか。今でも発展途上国などでは、肉を売る店のすぐ隣で、生きている牛を処理するところが多いそうです。暴れ回る牛から大量の血が噴き出し、あたり一面血の海に・・・・あまりに生々しいのでやめましょう。

 何故、こんな話題を持ち出したのかというと、こういう話も、そろばんの授業の合間に、子どもたちに、伝えておいた方が良いと思うからです。食べるものがあることのありがたさや、命の大切さを意識させることは必要なのです。また、逆の立場になって考えてみるということも、常に意識した方が良いと考えています。

 私たちは、食べなければ生きていけません。その食べ物の多くは、他の生命の犠牲によるものです。たとえ、ベジタリアンであっても例外ではありません。植物にも命はあるのですから。
 そうした命を奪うことにより、私たちが生き延びていけるということは、普段はついつい忘れがちになるものです。食べることが当たり前と思ってはいけないのです。毎日食事ができるということに感謝の気持ちを持ちたいものです。
 日本の食料の自給率は40%程度で年々下降中です。穀物に限れば20%台で、どちらも先進国の中では断然最下位です。狭い国土に加えて農地面積が少ない上に、人口密度が高いのですから当然かもしれません。ところが、食べずに捨てる食料はアメリカに次いで2番目に多いのです。また以前は、残飯は家畜の食料になっていましたが、今では、楊枝や串など食料以外の仕分けの費用がかかるため、ただ捨てるだけとのことです。聞きかじりの話です、念のため。

 こうした食料問題だけでなく、オゾン層の破壊、地球温暖化、森林破壊、エネルギー問題等々、現在抱えている重要問題なども、折に触れて話した方が良いでしょう。もちろん、生徒の年齢に応じて、難しい言葉は使わずに、易しく話すのです。子どもたちは驚くほど真剣に聞いてくれます。

【生徒の転居】
 最近、生徒の転居が相次いでいます。こればかりは仕方ありません。幸い、転居先でもそろばんは続けたいという生徒がほとんどですが、大きな問題があります。 転居先で、受け入れてくれる教室を探すのが大変なのです。
 そろばん教室であればどこでも良いというわけではありません。親や本人にとっては、効果的に伸ばしてくれる教室が良いのは当然です。
新住所が決まると、私は一応その近辺の教室を探しますが、数多くの方法があるわけではありません。連盟の会員名簿で見つけたとしても、授業内容まではわかりません。直接、見ず知らずの先生に電話をして、「先生のところ、熱心ですか?」と尋ねるわけにもいきません。知り合いの先生や、そのまた知り合いの先生を通じてその地域での評判の良いところを探します。
 親も転居先で教室探しを行いますが、狭い範囲に限られます。せいぜい同じ町内の1つか2つの教室です。見学に行き、その教室の先生と話して、私に連絡をくれます。「何かどうも・・・・」と、いう声がほとんどです。つまり、納得できず、あまり気が進まないようなのです。
 2月初旬に、年長の生徒が県外に転居しました。2桁×2桁や、÷2桁=2桁といった問題は暗算でできます。サーキットもF1クラスになりました。親も熱心です。転居先で近くの教室を訪ねたそうですが、「そんな子はお受けできません。もっと優秀な教室に行ってください」と断られたそうです。預かっても伸ばす自信がないから断るというのは、良心的であるのかもしれませんが、首をひねりたくなります。
 昨年末には、小3の生徒が転居しました。読上暗算も5桁程度はやりますし、日珠連のそろばんコンクールでは全国で20位台でした。この生徒も、転居先の近くでは気に入った教室が見つけられませんでした。
 上記の2例とも、現在は、遠く離れた熱心な先生の教室に通い、親が車で片道1時間以上かけて送り迎えをしています。
 実は、これらの生徒以外にも、昨年末には小4のトップの子も転居しましたし、最近は低学年でやる気のある生徒の転居が相次いでいます。今までには、父親の転勤が決まっても、単身赴任をしてもらい、家族は残ってそろばんを続けるというケースがいくつかありましたが、すべての家庭にそれを求めるのは無理なことです。皆さんの教室の上手な生徒さんは、是非浦和に引っ越しされますようにお勧めください!? とでも言いたくなるような昨今です。

【マスコミの利用】
 情報化時代です。どんなに素晴らしいことをやっても、それが広く世間に周知されなければ評価はされず、自己満足で終わってしまいます。評価を求めてやっているのではないとお叱りを受けそうですが・・・・。
 個人の教室にとって大切なことは、その地域での信用と評判であり、口コミによる影響が大きなウェイトを占めます。人格者が、熱意を持って理想的な授業をすることは、大変良いことであり、その地域に住む子どもや親にとっては大きなプラスですが、それだけでは広範囲にそろばんの素晴らしさをアピールすることには成り得ません。そろばん教室すべてがそうであったら問題はないのですが、転居の件で前述した通り、残念ながらそうではないようです。
 すべてのものごとは、テレビや新聞などのメディアで取り上げられて、初めて多くの人が知ることになるのです。
 そろばんが世間で認知されるためには、そろばんに関する話題が、もっともっとマスコミを賑わわさなくてはなりません。
 マスコミで取り上げられる条件は、珍しいことか、すごいことでしょう。「Aさんは、今朝6時に起きました」という日常的なことは、ニュースバリューがありません。話題性のあることを提供する努力をしなくてはならないのです。
 日本には古来から「謙譲の美徳」なる言葉があり、自己PRや売り込みには眉をひそめる傾向があります。時代は変わりつつありますが、今でもそうした感覚は根強く残っています。
 確かに、大したことでもないものを誇大広告するのは見ていて気持ちの良いものではありません。そうした売り込みは、マスコミ関係者にも伝わり、日の目を見ることは少ないでしょう。 一方、過小評価で甘んじているのもおかしなことです。正当な評価をされるような努力はして当然なのではないでしょうか。珠算十段を目指すことと、高校野球で甲子園出場を目指すことに何ら差はありません。若者が青春をかける努力に優劣はないはずなのに、マスコミの対応は月とスッポンほどの差があります。高校野球の甲子園大会は国民的行事として定着しているので、比べること自体に無理はあるでしょうが、それにしても珠算をがんばった人の評価は余りにも低すぎます。「そろばん日本一は誰でしょう?」と問うても、珠算関係者ですら知らない人が多いようです。
 全国どこの市町村にも役所があり、その中に記者クラブ(名称は各地で異なるかもしれません)があります。ここには各新聞社やテレビの地方局の記者や社員がいるのです。マスコミに伝えるためには、ここに情報を流すことがもっとも手近な方法でしょう。先方も情報提供を待っているのです。どこにでもあるマンションやアパートの集合郵便受けのように、記者クラブの室内またはすぐ外の通路に各社への情報を受け付けるボックスが設置されているはずです。ここへ情報を置いてくるのです。顔を合わせ説明することもありません。情報は、「いつ、どこで、だれが、何をした」ということと、連絡先の電話番号だけ書いておけばよいでしょう。後にそれを読んだ記者等が、価値ありと判断すれば連絡が来ます。多くの珠算人が話題作りの努力をすれば、珠算に関する話題が全国各地で頻繁に取り上げられることになります。ひいてはそれが、珠算が世間に認知されることになり、珠算界の活性化につながるのです。

【小2で1級合格】
 去る2月に行われた日商検定において、マスコミが飛びつきそうな話題に恵まれました。私の教室の小2の生徒が1級に合格したのです。「小2での1級合格」だけでなく「習い始めて1年2カ月」そして「3級、2級、1級の連続合格」「小6の姉も同時入学で同時進級」というのもかなり珍しいのではないかと思います。
 発表の日に、地元の浦和商工会議所から記者クラブに連絡がいきました。すると、その日のうちに会議所を通じて私のところに次々に電話がかかってきたのです。読売新聞、朝日新聞、産経新聞、東京新聞からで、教室で取材をしたいとのことでした。同じような質問を受けることはわかっており、1社ずつの対応は時間がかかるので、全社とも午後6時に来てもらうことにしました。本人と親にもその時間に来てもらい記者会見?さながらの光景となったのです。
 翌日の朝刊に写真入りでドーンと出ました。朝日新聞だけは、一緒に合格した姉も載せたいとのことで、翌日あらためて取材に来たため、1日遅れのカラー掲載でした。これが1級ではなく、十段取得であれば全国版扱いなのでしょうが、すべて埼玉県内版でした。
 決していい気になっているわけではありません。全国には、幼稚園生での1級合格や、入学2年以内で十段合格という方がいることも知っています。どの世界でもそうでしょうが、一番でなくてもニュースバリューはあるのです。
 どこの教室にも隠れた才能は埋もれているはずです。そうした子どもたちの潜在能力を引き出すのが私たちの仕事であることを肝に銘じたいものです。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2003年6月号 連載第17回
【幸福って何でしょう?】
 幸福を定義づけることは難しいことです。
 何を幸福と感じるかは人それぞれの価値観によって違います。周囲から見ると悲惨な状況であっても本人が幸福と感じれば幸福でしょうし、大変恵まれていながら常に不満を持っている人もいます。幸福は客観的視点ではなく主観で判断するものです。
 どんな人が幸福と感じているかを調査した研究によると、収入、性別、年齢などが違っていても、幸福と感じている人の割合にはほとんど差がないとのことです。また、自分が幸せであると答える人には外向的で楽観的であるという共通点があったそうです。
 ほとんどの人間は、精神的・物質的な充足度や、居心地の良さを求めて生きるものです。そうした生き方を求めるに当たり、すべての人間が生まれながらに平等かというと、決してそうではありません。受け継いだ遺伝子も、置かれた環境も大きく違うのです。与えられた運命とでもいうしかありません。
 そして、それぞれが異なるということは、良し悪しは別にして否応なしに優劣がつけられます。本来は、単に個性の違いなのですが、序列をつけたがる人間は多いのです。
 世の中には二人として同じ人間はいません。外見も中身もみな違います。人間の数だけ個性があるのです。だからこそ面白いのでしょう。すべての人間が外見も中身もまったく同じだったら・・・・一体どうなるのか見当もつきません。
 様々な要素をもってそれぞれの人間が形成されているのですが、最も根本的でしかも重要なことに限って、どんな努力をもってしても解決できないことが多いようです。
 生まれる国を選びましたか? 生まれる時代を選びましたか? 肌の色を選びましたか? 答は否です。これらにはまったく本人の意思の入る余地はありません。親も選べなければ、性別も選べません(最近は??)。これらは与えられた状況を受け入れなくてはならないのです。
 では、外見や中身はどうでしょう。これも生まれながらに授かったものがあり、どちらかと言えば選べない部類に入るでしょう。しかし、ここには努力のつけいるスキはありそうです。

【外見の美しさは有利ですか?】
 いきなり誤解を招きそうな話題で恐縮ですが、男女を問わず、見た目の美しい人とそうでもない人とがいます。果たして、外見の美しさは人間にとって有利なのでしょうか? 幸福をつかむためのプラスポイントとなるのでしょうか?
 人間は基本的に美しいものを好みます。花でも景色でも美しいほど、多くの人を感動させ幸福感に導きます。人間の容姿も例外ではないでしょう。美しいに越したことはありません。
 人の外見は、主に『顔立ち』と『スタイル』に分けられます。顔立ちそのものを変えるには整形手術しかなさそうですが、そこまでしなくても化粧などでカバーすることはできるでしょう。スタイルに関しては、身長を調節するのは無理としても、体重や体型の調節は意志力とトレーニング次第でどうにかなるはずです。
 容姿に恵まれない人が、落ち込むことはありません。花や景色の場合は、見た目の美しさが評価の判断基準のほとんどすべてを占めますから、他の分野での挽回は大変難しいところですが、人間の価値は見た目だけではありません。これからモデルやアイドル、美人女優、二枚目俳優などを目指すとなれば話は別ですが、一般的には容姿はそれほどの致命傷にはなりません。
 人間は総合力で評価されるべきものです。外見だけで価値を決められたのではたまったものではありません。しかし、外見の評価をあげることを完全放棄してしまうのもよくありません。
 『表情美人』『性格美人』と言われるように、内面から醸し出す魅力で点数を上げることも可能です。しぐさや、品位、雰囲気などで他者からの評価を上げることも可能でしょう。決してあきらめずにそれなりの努力はした方がよいでしょう。他人からの評価を、気にしすぎることもよくありませんが、ある程度は気にすることも人間として必要なことなのです。
 美しい容姿に恵まれているというのは、大変素晴らしいことであり、周囲に幸福感と心地よさを与えますが、それだけでは必ずしも本人の幸せに結びつくとは言い切れないでしょう。

【中身は変えられる?】
 さて、続いては中身についてです。多くの場合、先に目に触れるのは中身よりも外見ですが、中身の方がはるかに大切であることは間違いのないところです。昔ながらのペンフレンドや、最近のパソコンによるメール交換などは、外見より先に中身を知る、数少ない例でしょう。
 中身を、大きく2分すると『頭の良さ』と『人間性』になります。果たして人間の中身は変えられるものでしょうか。
 その前に、『頭の良さ』とはなんでしょう。これは人によって解釈の分かれるところです。
 学校の成績が良いことなのでしょうか? 機転が利くことなのでしょうか? 知識が豊富なことでしょうか? 『頭が良い』と相手に思わせるテクニックに秀でていることでしょうか?
 学生時代は、テストで良い点を取りさえすれば、一般的には『頭が良い』と言われます。人間の持つ様々な能力の中で、記憶力と理解力だけがほんの少し秀でていれば、たとえ他のことは並以下であっても『頭が良い』と言われます。困ったことに、日本では、成績が良いことが、必要以上に高く評価されがちです。そのため、子どもの頃に周囲からチヤホヤされ、勘違いをする場合があります。親までもが成績さえ良ければいい、という価値観を持っていると、もう手に負えません。子どもをたしなめるどころか、助長することになってしまいます。
 ところ変われば、「頭の良さ」など何の役にも立たないのです。地球上には、走るのが速く、狩りが上手で、体力があることの方がはるかに価値があるという地域がいくらでもあるのです。ここは日本だ! と言われそうですね。
 大人になってから評価される『頭の良さ』は学生時代とは違うようです。学生時代は知識を身につけることが大切ですが、大人になってからはそれを如何に利用するかが問われます。知識の豊富さだけなら百科事典やコンピュータがあり、どんな優秀な人間でもかないません。知識を有効利用できてこそ、頭が良いということになります。
 状況を判断し先見性も含めての的確な決断をする能力や、問題解決能力、矛盾のない理路整然とした論理の展開で説得力を持つことなどが、現代の大人に求められた『頭の良さ』なのではないでしょうか。もちろん、これらの後ろ盾として豊富な知識や教養が必要なのは言うまでもありません。
 学生時代の『頭の良さ』は先天的要素によるところが大きな比重を占めてしまいます。残念ですが事実なのです。子どもの頃を思い出しても、ロクに勉強をしていないのに成績抜群の輩がいたものです。当時は、そういう輩はきっと陰で努力をしているんだろうと思って自らを納得させていたのですが、実際はそんなこともなかったようです。要するに、普通の人間が何度も反復して身につけることを、能力の高い人間は簡単に覚えてしまうらしいのです。何ともうらやましい限りです。珠算の授業においても、見取暗算などではそういった差が顕著に表れます。練習を始めて期間が短いのに、3桁15口を苦もなく合わせる子どももごくまれにいます。
 ところが、一般人はそうはいきません。やれどもやれども効果が上がらないなんてことは日常茶飯事です。周囲に天才的な人間がいると、あまりの違いに落ち込むこともあります。そんな思いを何度も繰り返して成長していくのです。
 大人と幼児とで歩く場合を考えましょう。大人の歩幅が幼児の2倍とします。並んで歩くためには、幼児は大人の2倍の速さで足を進めなくてはなりません。この歩幅に当たるのが素質とか才能であり、足の回転数が努力に相当します。つまり、能力差の部分を努力で補うのです。特別な方法などなく、それしかないのです。残念ながら先天的な能力差自体は縮められないようです。でも、つけいるスキはあります。 幸いなことに、一般的に能力の高い人間は努力の量が足りない場合がほとんどです。小さいうちから苦労せずに物事を達成できているのですから、どうしても努力が苦手になる傾向があります。この部分が狙い目です。
 天才が努力をしたら凡人には太刀打ちができませんが、世の中は結構うまくできており、そういうケースはめったにないようです。小学生が新出漢字を覚えたり、中・高校生が英単語を覚える際にも、1度で覚えてしまう天才と、数度繰り返して覚える凡人がいます。これは、テストまでに全部覚えていたら満点が取れるのであり、覚えるまでの反復練習の回数が重要なのではありません。珠算の検定でも、1級1発合格と、5回目の挑戦で合格した生徒に技術の差はありません。要は最終的にどこまで到達できたかということだけが重要なのです。
 ウサギとカメの競争でも、ウサギが休むから逆転劇が起こるのであり、そうでなければカメに勝ち目がありません。努力することも才能かもしれませんが、環境によって改善できます。すぐに休憩をするカメではまずいのです。
 相撲取りでも、身体が大きいという先天的資質は有利には違いありませんが、絶対的強さにはつながりません。体力面のハンディを、技や工夫、敏捷性、その他の努力によってカバーし『小よく大を制す』からこそ成り立つのです。
 世の中のすべてのことが、先天的資質だけで価値が決まるのでしたら何とも味気ないでしょうし、それで評価されるのでしたら資質に恵まれない人間は悲惨です。何をやっても浮かばれない我が身の運命を恨むことでしょう。努力が報われないことがはじめから分かっていたのでは、誰も努力なんてしないでしょうし、努力自体が意味をなさなくなってしまいます。

【もっとも大切なことは?】
 さて、最後に『人間性』についてです。今までは外見である『顔立ち』や『スタイル』、内面を形成する『頭の良さ』について書いてきましたが、この『人間性』こそが、最も重要と考える人が多いのではないでしょうか。
 人間性を高めることは最優先されなければならないことの一つです。また、一言で人間性と言いましても多様な要素を含んでいます。
 誠実さ、思いやりを持ち、気配りができ、場の空気を読み、周囲に不愉快な思いをさせない・・・・等々、大切なことです。自分自身の願望よりも、相手または周囲の人たちの心地よさを優先できるような奉仕の精神を心掛け、実践できることが、高い人間性と言えるでしょう。
 これらは、生まれながらの資質というよりも後天的な親のしつけや、子どもの頃の環境によって形成される部分が大きいものです。しかし、知識や教養と同様に、短期間で身につけることは大変難しいものです。
 人間性が大切であるということは、高い人間性の対極を考えてみれば容易に理解することができます。凶悪犯の存在などは決して許せるものではありません。そこまで極端でなくても、まったくの自己本位で、協調性がない人と接することは気分の良いものではありません。
 幸福かどうかは、客観的視点ではなく主観で判断すると本稿の冒頭に書きました。しかし、その後に触れた、顔立ちも、スタイルも、頭の良さも、そして人間性も、すべて主観ではなく、客観的判断の方が正しいのです。主観が正しいと言い張ることは“一人よがり”と言います。
 他者の犠牲の上に成り立っている幸福は本当の幸福ではありません。それで幸福だと思っているようでは人間性に大いに問題ありです。また、家族をなどをはじめとした特定の人にだけ人の良さを発揮し、他者を冷遇する人もいますが好ましいことではありません。
他者の幸福な姿を見て、あるいは幸福になる手助けをして、自らも幸福な気分を感じるというのが望ましいことです。これらを意識することなく、自然にできることが理想ですが、多くの人にとってそう簡単なことではありません。
 多くの善良な人々は、法治国家の下で法律を守って生きています。そんな人ばかりならば住みよい世の中になるのでしょうが、現実はそうではありません。親が子どもを送り迎えするのも、留守の時に戸締まりをするのも、悪い人間が存在するからです。本当に残念なことです。
 幼児期から、家庭教育、地域教育、学校教育等々で『正義』と『真実』をくどいほど徹底的にたたき込むことこそが、多くの人の幸福につながることになるでしょう。“悪いことをしてはならないと”いうことは、もっともっと強く指導されるべきです。

 職業倫理というのはあらゆる職種に存在します。どんな職業であろうと人間性は高めるべきでしょう。ところが、人間性だけでは不十分です。専門知識と専門能力が必要となるのです。
 もちろん、珠算指導も例外ではありません。人間性の高さと、珠算指導者としての能力は車の両輪のようなものであり、どちらが欠けていても正常ではありません。
突然ですが、あなたの教室で珠算指導をする職員を採用することになったと仮定しましょう。どんな指導員が来てくれたら良いでしょう。
・真面目で素直である。
・明るくはきはきしている。
・子どもを好きである。
・子どもから好かれる。
・整理整頓が得意である。
・すべての子に公平に接する。
・珠算指導への熱意がある。
・珠算に関する知識が豊富である。
・笑顔が多く、授業のテンポが良い。
・楽しさと厳しさのメリハリがある。
・子どもをその気にさせるのがうまい。
・動作が機敏である。
・性格が温厚である。
・状況に応じ臨機応変に行動がとれる。
・思いやりがあり、気が利く。
・話術がたくみである。
・アイデアが豊富である。
・金銭に執着しない。
 考えればまだまだあるでしょうが、上記のような要素を持っていてくれたら最高です。しかし、残念ながらそんな人はめったにいないでしょう。新しい職員どころか、ベテランの指導者でもこれらすべてを満たしている人はそうはいません。せめて一つでも多くの要素に当てはまるようになりたいものです。

 珠算学習に限ったことではありませんが、近年は本物志向の傾向が強くなっていることを強く感じます。上辺を取り繕っていたのでは、これから先は通用しません。保護者から「この先生だったら安心して任せられる」という評価を得られるような指導者にならなくてはなりません。珠算教室の存亡は指導者の腕次第です。
皆様、あきらめずにがんばりましょう。


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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2003年8月号 連載第19回
【期待に応えられる教室に】
 「突然すみません。小4の息子がいます。そろばんを1年ほど習っています。今の教室は暗算はほとんどやりません。暗算の指導に熱心な教室を探していますが、どうやって調べたらいいのか皆目わかりません。月刊サンライズ購読希望ですが、そのような地域の教室情報なども載っているのでしょうか」
 見知らぬ方からの突然の電子メールです。おそらくサンライズのホームページを見ての、問い合わせだったのでしょう。
 全国の各地域のそれぞれの教室の指導内容までを把握することはできませんので、サンライズに情報として載せられないことを伝え、その地域でレベルが高いことで著名な珠算教室の連絡先を添えて返信をしました。
 こうした問い合わせは初めてではありません。子どもが通っているそろばん教室の指導に物足りなさを感じている保護者は少なくないのです。
 習う側の立場に立てば、そろばんに限らず、何をやるにおいても良い指導者を望みます。ということは、指導者は『良い指導者』であるかどうかを、常に意識する必要があるのです。
 『良い指導者』の条件とは何でしょう。
・指導者に相応しい人格を有している。
・指導力がある。
 この2点は欠かすことのできない最低条件です。そしてこれらは、自己評価ではなく、他人の評価が正しいのです。自身が周囲からどのように見られているのかを知り、レベルアップに努めることが、大変重要なことなのです。

【己を知ろう!】
 そこそこの規模の組織になると、自己評価と他人の評価とに大きな開きのある人がいます。
 立派なことをやり、厳然たる結果が伴い、周囲が高い評価をしているのに自己評価が大変低く、へりくだり過ぎている人がいます。稲穂のように実るほど頭が垂れるのはいいのですが、あまり垂れすぎるのもおかしなものです。
 まぁ、それはそれで問題があるにしても、一応はおいておきましょう。本当に困るのは、この逆のタイプの人です。言うまでもなく、他人からの評価が非常に低いのに、何故か自己評価だけが大変高い人です。自己主張が強く、会議の席などでも、妙な理屈をつけて自分の意見を通そうとします。大抵はどうでもいいことなので、よほどでない限り、直接「アンタ、それはおかしい」とは言いません。周囲は大人ですから、気を遣うのです。
 本人は、自分の意見は筋が通っているから受け入れられたと思っています。大きな勘違いなのです。皆さんの身近にもそんなタイプの人がいるのではないでしょうか。こういう人の存在は結構厄介なものです。物事に対して自分サイドからの視点しか持たないため、他者との妥協点を見いだせず、場の空気を読むこともできないのです。「んっ、自分のことでは?」と思い当たる人はまだ軽症です。重症になると、「そうそう、そんなヤツがいるんだよな!」とは思っても、まさか自分のこととは思わないのです。本当に恥ずかしいことですね。

【世の中は病んでいる】
 連日、どこかで事件が起きています。他人どころか、時には仲間や身内までを騙し傷つけ、命まで奪ってしまうことさえあります。残忍な事件が起きる度に、「こんな事件は二度と起きてはいけない」と多くの人が思いながら、結局は同じことの繰り返しです。人間関係のもつれで感情的になったり、他人の金品を奪うことが目的で、悲しい事件が起きてしまうのです。
 捕まった犯人が理由を問われ、「ムシャクシャしたから」とか「カッとして」などと語っているのを聞くと何ともやりきれません。新聞やテレビで報道されるのは、事件として起きてしまったことですが、そうなる一歩手前で思い留まったとか、運良く未然に防ぐことができたというケースまで含めるとものすごい数になるでしょう。大きな事件も、身近に起こる小さなもめごとも年々増えているようです。
 こうした不安定な社会を望んでいる人はいないでしょう。多くの人がもっと安全で快適な世の中になることを希望しているはずです。それが何故、こんな世の中になってしまったのでしょう。その大きな要因として、人間の耐性が低下していることが挙げられます。耐性、すなわち我慢する力がないから、他人と協調できずぶつかるのです。
 乱暴な言い方ですが、昔は大人が価値観を子どもに押しつけることが暗黙のうちに容認されていました。それが全面的に正しいことではありませんが、一般的には人生経験の豊富な大人の方が子どもよりも正確な判断のできる確率が高いのです。
 しかし、近年は「子どもの人権」だとか「個性の尊重」という言葉が一人歩きし、拡大解釈され、それを隠れ蓑に何でも許される時代になってしまいました。もっともらしい上辺の解釈に惑わされる人も多いようです。
 最近は、自らの欲望のままに権利を主張するばかりで、相手の気持ちを考えることが二の次になってしまっている人が増えています。そんな人間が増えれば、衝突が多くなるのは当然のことです。
 いったい、いつからこんな時代になってしまったのでしょう。
 現代の若い親たちが育った時代、日本はすで戦禍から立ち直り、豊かな国になっていました。長く続いた物資不足時代の反動もあり、消費することが美化されていました。いわゆる使い捨て時代であり、物が溢れ、欲しい物が簡単に手に入りました。時代は流れ、そんな環境で育った人間が親となったのです。
 「生めよ増やせよ」の時代から一転し、「少なく生んで大事に育てる」といった傾向となり、子どもたちは、あたかも王子様、お姫様のように大切に育てられることになります。
 一家庭の子どもは平均2人。2人までなら親の膝を独占できます。3人以上になると2人の親を奪い合うという兄弟姉妹間の競争が生じます。2人までと3人以上、子どもの性格形成上において、ここの差は意外と大きいものです。
 こうした甘やかしも問題ですが、他方では、放任も問題となっています。大都市の繁華街などでは深夜でも中高校生が遊んでいるようです。親が子どもを管理できなくなってしまっているのでしょう。ハワイでは12歳以下の子どもだけで留守番をさせることは法律違反になり、見つかると親は逮捕されます。日本では当たり前のカギッ子などは許されません。保護者は文字通り、子どもを保護する義務があるのです。
日本では、父権の喪失、女性の社会進出など、家族形態が変化し、家庭教育が崩壊していますが、社会の乱れとは強い相関性があります。
 現代社会の問題点を書いていたらキリがありません。病んでいる世の中を改革するには教育の力が必要です。そろばん指導も教育の一分野です。それも、現代の子どもたちに最も必要な反復練習が主体です。多くの子どもたちが珠算を習うようになれば、非行少年や少年犯罪が激減することは間違いありません。責任を持って珠算指導に取り組まなくてはなりません。

【教え子の結婚にあたって】
 重い話題が続きましたので、今度は軽い話題を書きましょう。
先日、かつての教え子が結婚しました。残念ながら披露宴には欠席しましたが、出席した別の教え子に下記のメッセージを託しました。
---------------------------------------------------------------------------- 
 幸弘くん、裕子さん、ご結婚おめでとうございます。私は、さいたま市でそろばん教室を経営している高柳和之と申します。幸弘くんは学生時代に、浦和市(現さいたま市)に住んでおり、小学生の時から高校時代まで、約10年間、私の教室に通ってきました。その頃の思い出とエピソードを紹介させていただきます。
 今でもそうですが、子どもの時からとにかく真面目で人当たりの良い幸弘くんでした。小中学生の頃は、ひたすらコツコツと練習に取り組んでおり、目立つタイプではありませんでした。ハメを外さなかったため取り立ててここで紹介するようなことも思い出せません。
 そろばんというと、小学生の習い事というイメージがありますが、当時の私の教室には数十名の中高校生が通っていました。幸弘くんもいつしか上級生となり、後輩から慕われる存在になりました。そして今でも語り継がれる強烈なエピソードを残すことになります。その中から2つほど紹介させていただきましょう。
 ・その1 マラソン大会失神事件
 40kmを走る高校の校内マラソン大会でのエピソードです。全校一斉のスタートでしたが、幸弘くんは2位以下を大きく引き離しトップを走っていたのです。ゴールまであと数kmとなっての独走で優勝は確実と思われました。ところが、どうしたことか、ここでコースを間違えてしまったのです。先導車のミスなのか本人のミスなのかは定かではありませんが、かなり走ってしまったようです。やっと気が付き、元のコースに戻った時は、すでに数十位になっていたようです。気力を振り絞りそこから必死に追い上げたのですが、時すでに遅かったのです。それでも、5位でのゴールでした。ゴールと同時に気を失って倒れた幸弘くん、気が付いたのは病院のベッドの上だったのです。
 ・その2 深夜の特別練習
 高校時代の幸弘くんはバドミントン部に所属していました。バドミントンの練習を終えて帰宅し、それからそろばんの練習に来るのが日課だったのです。ある日の夜11時頃、幸弘くんから私に電話がありました。「先生ですか。今日はそろばんの練習に行けなくてすみませんでした。部活の大会が近いので夜10時までバドミントンの練習があったんです。今帰って来たのですが、汗だらけで空腹なので、風呂に入って夕飯を食べてから練習に行っていいですか? 12時過ぎると思いますけど」「やる気があるならおいで」と私。本当に深夜12時過ぎに来て練習をしたのです。1時間ほどの練習を終えて帰りました。「お疲れさん。朝は早いの?」という私の問いに「はい。早朝練習があるので6時には家を出ます」とのこと。こんなことが何度もありました。
 こうしたエピソードでもお分かりのように、幸弘くんは『根性の男』です。精神力の強さを感じます。自らには厳しいのですが、周囲に対しては本当に優しい素晴らしい男です。【以下略】
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 長く続けてくれた生徒はそれぞれに伝説を残してくれています。OB会などでしばらくぶりに集まると、必ずこんな話題で盛り上がります。 幸弘くんは、大学卒業後に遠方へ転居してしまい、この披露宴も遠方で行われましたが、当時の珠算仲間数名が出席しました。10年間も通い続けた珠算教室の仲間とのきずなは学校の友人よりも強いのです。
 現在、通ってきてくれている生徒にも、ちょっとした授業の合間に、こうした先輩たちのエピソードなどを話すことがあります。感心する話、笑える話が数多く好評です。

【徹夜で60kmを走破!】
 せっかくですから忘れられないエピソードをもう少し紹介しましょう。
 私の教室では、毎年、東京奥多摩の御岳山で3泊か4泊の合宿を行っています。往復には、大型バスを借りて行くのです
 十数年前の夏のこと。中高校生数名が自転車で行きたいと言ってきました。片道約60kmです。理由は思い出を作りたいとのこと。何かあったらどうするんだ、と考えるのが私の立場です。結局、義務教育を終了している高校生以上に許可を与え、中学生には断念してもらいました。早朝に自宅を出発して4時間ほどで着いたようです。・・・と、ここまでは、前書きなのです。
 断念させられた世代が高校生になり、「合宿に徒歩で参加したい」と言い出しました。「ナニ! 歩きで?」「先輩たちが自転車で行ったのでそれ以上でないと意味がない」とのこと。
 私はたまたま、高校時代に学校行事で50km超のマラソン大会を毎年体験したので、その大変さは多少は分かっているつもりです。とにかく、60kmという距離が生半可ではなく、単なる思いつきでは到底無理であるということを言ったのですが「是非やりたい」と意気盛んでした。そして、計画は参加者3名で実行されたのです。
 合宿の前夜10時に地元浦和を出発し、夜を徹して歩き通したのです。途中、ラーメン店に立ち寄り夜食をとった以外はほぼ無休。それどころか歩きではなく小走りだったそうです。しかも、目的地は山であり、後半は数百メートルの登りです。いくら若くて体力があるとはいえ、想像以上に厳しかったようです。
3人は見事に完走(完歩?)しました。
 「いやぁ、つらかった。もうこんな経験はしなくていい。着いた時は泣きそうになった」「上半身は元気なのに、後半は足が動かなくて。一人だったら挫折してた」「今度は、ウサギ跳びで参加するぞ!?」。三者三様の感想でした。
 何年たっても、何十年たっても思い出に残る経験は、人生において本当に貴重なものです。

【迫真の名演技!】
 合宿にかかわる思い出は尽きません。他の教室の合宿の様子を聞くと、午前中に練習して、午後は遊園地やプール、ハイキング、夜はバーベキューや花火大会など行事がたくさんです。
 私の教室の合宿は、起きている間は、基本的に練習オンリーです。といってもここ数年は、それまでと比べると甘くなって来ていますが。
 練習漬けで過ごしたストレスを最後の夜に発散させます。大レクリエーションをやるのです。合宿には何人かのOBが指導に来てくれるのですが、地元在住OBはもちろん、新潟、名古屋、仙台、宇都宮などからもいずれ劣らぬ逸話を持つOBたちが会社を休んで自費で来てくれます。これはもう感動ものです。
 レクリエーションでの思い出を一つ。宴もなかばを過ぎた頃、男子高校生が二人、私のところに来ました。「ケンカの真似事をしてみんなを驚かせたいので許可してほしい。かなり本格的にやるので、先生には言っておかないとまずいと思って」と言うのです。当然許可しました。
 しばらくすると、出し物を見ていた数十人の小中学生に交じっていた高校生二人が突然ケンカを始めたのです。「バカヤロー、何だよ!」「テメーこそ何だ!」「ヤルのかよ!」。すごい迫力でののしり合います。互いのエリを掴み、締め上げて、必死の形相です。「コラッ、おもてへ出ろ!」「よしっ!」。二人はクツもはかずに飛び出しました。普段は優しい先輩たちのケンカが始まり小中学生たちは騒然。騒ぎを聞きつけた民宿のご主人も止めに出てきました。私は小声で「本気じゃないのでご心配なく」。
 しばらくして戻ってきた二人。「テメー、まだやるのか」「うるせーな」とやり合っています。小中学生がハラハラ見守る中、二人は突然、肩を組んで握手をして、優しい笑顔で「今のはボクたちの演技でした。みんな本気にした?」。
 頭の中で何が何だか整理がつかない小学生や、安心して泣き出した女の子もいました。これも忘れられない思い出の一つです。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2004年3月号 連載第25回
【教育の荒廃】
 教育問題が大変注目されています。国の将来を担う子どもたちに対する教育は最も重要なことの一つですが、大きな問題になっているというのは、憂慮すべき事由が山積みだからです。
 教育は2つの分野に大別することができます。一つは学力、もう一つは人間性です。どちらも大切なことですが、現代は両方ともに由々しき事態となっています。
 私たち珠算指導者も教育の一端を担っているわけです。全国にある小学校の数と珠算教室の数は、在籍人数こそ違うもののほぼ同数です。公教育よりも私塾の教育の方が制限がない分、やりやすい面もたくさんあります。十分に特色を発揮して、日本の教育に貢献しなければなりません。また、それが珠算教室の存在価値を高めることにもなります。
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 何年か前のこと、近くの小学校に出向き、1年生の算数の授業を参観したことがあります。50歳ぐらいの担任の女性教師が次のような問題を、丁寧にゆっくりと板書しました。
 『かだんにしろいはなとあかいはながあわせて13ぼんあります。そのうちしろいはなは5ほんです。あかいはなはなんぼんでしょう』
 「はい、だれか問題を読める人? ○○さん、読んでください」「この問題の中に大切な数字があります。わかる人? では△△さん」「そうですね。13ですね。もうひとつ、大切な数字がありますね。わかる人? では××さん」「そうです。5ですね」・・・・・・・
 生徒に答えさせると、教師は黒板の必要箇所にアンダーラインを引き、念を押します。このような説明が延々と続きました。雰囲気を伝えられないのが残念ですが、言語は明瞭で、大変ゆっくりとした口調なのです。
 懇切丁寧な授業と言えば聞こえはいいのでしょうが、とにかくまだるっこしいのです。30名ほどの生徒の大半は飽きてしまっているのです。結局40分間をかけて説明したのは、上記の問題と、類似したもう1題の計2題だけでした。
 短時間で理解する子もいれば、何度も説明して理解する子もいるのはもちろんです。全員が理解できるように、という気持ちはわかりますが、必要以上にくどいと感じたのは私だけではないはずです。ゆっくりとした説明は眠気を誘い、興味を削ぎます。理解できていないグループに説明をしている間に、わかっているグループに、より高度な問題を与えるという配慮ぐらいはするべきでしょう。
 このような授業を黙って聞いているのは、理解できている生徒にとっては苦痛を感じるだけです。伸びる芽を摘み、知的好奇心を奪うことになります。つまらないことを我慢する訓練にはなるでしょうが、効率の悪さを感じました。
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 最近、特に驚くのが教科書の薄さです。小学校低学年だけでなく、3〜4年生用を見ても、まるで幼児の絵本のようです。私たちの子どもの頃でさえ、新しい教科書を受け取ると、授業でやる前にすべて読んで理解してしまう友人もいました。教科書が易しくなれば当然そんな子どもが増えます。それを長期間かけて授業を行うことに何の意味があるのでしょう。
 学習指導要領では、難しい部分を削除し、さらに学習内容そのものを大幅削減しているのですから薄い教科書になるのも当然です。
 このように考えると子どもたちの学力低下は、なるべくしてなったように思えてなりません。
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 経済協力開発機構(OECD)が加盟国を中心に32か国の15歳の男女生徒約26万5000人を対象に実施した国際学習到達度調査の結果では、日本の子どもたちの家庭学習時間は諸外国と比べて突出して少ないというデータが出ています。マンガや雑誌を除いた読書量に関しても調査対象国中で最低なのです。
 また、全国学校図書館協議会と毎日新聞社とで行っている「学校読書調査」の「平均読書冊数の推移」によると、小学生は近年はやや増加、中・高校生に関してはここ30年ほど横ばいです。しかし、最近の調査で「1ヶ月の読書冊数がゼロ」という生徒は、高校生の67%、中学生の44%でかなり増加しています。にもかかわらず全体の平均読書冊数が横ばいというのは、少数の「よく読む生徒」が頑張って平均冊数の低落を抑えているということなのです。このようなデータが、顕著な二極分化を物語っています。
 『子どもと若者が本を読まない国に未来はない』と言われますがまさにその通りです。では、気になる大人の平均読書量はどうなのでしょう。実は学生よりもはるかに少ないのです。この辺にも大きな問題があります。
 ついでですが、どんなテレビ番組を見るかという統計においては、親がニュースをよく見る家庭の方が、娯楽番組を見る家庭よりも、子どもの学力が高いというデータがあります。
 とにかく、大人が姿勢を正さなければ子どもたちは良い方向には進まないのです。
 自戒しつつ書いています。
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 悲観的なことばかり書いてきましたが、一人でも多くの大人が日本の教育の現状に危機感を持ち、真剣に取り組まなくてはいけないと強く感じているからです。良い教育がなければ世の中は良くなりませんし、国際社会においての競争力も弱まります。次世代以降が、幸せに生きることが難しくなるのです。
 一人や二人が声を大にしたところでどうにかなるものではありません。珠算の指導者一人ひとりが意識を高められれば、大きな力になることができるのです。言うは易く行うは難し!

【珠算教室の対応】
 教室に目を転じてみましょう。飲み込みがよく、一通りの説明で理解してどんどん進んでいく生徒もいれば、何度説明してもなかなか理解に至らない生徒もいます。
 どちらかというと、後者の生徒の割合が増えている教室が多いのではないでしょうか。これには、いくつかの理由が考えられます。
 まずは、学習開始時期の低年齢化が最も大きな理由でしょう。続いて、学習日数や学習時間の減少傾向、さらには、入学以前の家庭でのしつけの不足、本人の意欲の欠如、精神年齢の低さ等々が考えられます。
 珠算学習の基礎は非常にシンプルであり、高い能力を持っていなければ理解できないというものではありません。犬や猫に珠算を指導し、理解させることは不可能ですが、相手が人間で日本語が通じれば、どうにかなるはずです。
 ところが、前述のような理解能力以外の要素が欠けているから上達しないのです。これらを解決するには工夫と努力と強制力が必要です。

■低年齢の場合
 低年齢になるほど知能の発達が未熟ですので、珠算に限らず何を教えるにしても、理解するまでには相当な反復練習が必要です。一度覚えて次の段階に進んだら前のことを忘れてしまうということも珍しくありません。指導者には根気と忍耐が要求されます。労力の割りに目に見えた効果が表れにくいものですが、突然、劇的な成果を見せて喜ばせてくれることもあります。そんな日がくることを信じて、決して短気を起こさずにコツコツ指導するしかありません。ただし、いくら低年齢だからといって我が儘をすべて認めてしまっては教育にはなりません。甘やかし過ぎないような正しい判断が必要です。

■練習量が少ない場合
 最近は教室自体の授業日が減少傾向ですが、これは指導者サイドの話であり、保護者や子どもの責任ではありません。練習量が少なくては大きな成果が得られないのは当然です。週に1回や2回の授業の場合、家庭でかなりの反復練習を行わないと順調な上達は望めません。思うような成果が表れないと、興味も薄れてしまい、早い時期に去ってしまうことになります。
 あれもこれもと習い事に手を染め、忙しい思いと多額の費用をかけて、結局は何もものになないというケースはよくあります。
 保護者や子どもに話して、豊富な練習量が必要であることを説くべきです。しかし、大抵の場合はスケジュールが詰まっており、練習量を増やすことは難しいようです。
 となると、次善策として練習の質を高めることになります。練習量の多寡にかかわらず、質の高さの追求は続けるべきですが、練習量が少なければなおのこと重要になります。
 質を高めるには、授業の進め方に合った教材を上手に使いこなすことはもちろん、無駄な時間をできる限り減少させることが大切です。
 教材は、各教室それぞれですのでここで触れることはできません。無駄な時間を減らすことについて触れてみましょう。
 教室に入り、バッグからそろばん、筆記用具、テキストなどを取り出して練習を始めるまでの時間、計時をする場合なら種目と種目の間隔、読上算や読上暗算の「円では」から次の問題の「願いましては」までの間隔等々、縮められるところは結構あるのではないかと思います。
 さらに言えば、技術の部類に入ってしまいますが、「よ〜い始め」から1番の問題に取りかかるまでの時間、1番の計算を終えてから答えを書き始めるまでの時間、答えを書き終えてから次の問題に取りかかるまでの時間等々・・・・。
 乗除の計算途中ならば、九九を連続して唱えているか、見取算なら1口目を布数してから続けて2口目を布数しているか・・・・、上級者の暗算ならば、答えを記入している間に次の問題の計算を始めているかどうか。
 要するに、常に計算しているか答えを書いているかのどちらかでなくてはなりません。当然のことながら、下級生は一つの作業ごとに指が止まるのに対し、上級生になると常に動き続けることができるようになります。
 以前、作家の某氏が週刊誌上で少年の頃に習っていたそろばんのことに触れ「速度を要求されるようになってそろばんが嫌いになった」というようなことを書いていましたが、本人の個性もさることながら、指導者の導き方に問題があったように思えてなりません。
 世の中、ゆとりを持つためにわざと無駄を作ることはありますが、大抵の場合は、効率よく素早く物事を処理した方が良いのです。また、素早さを身につけている人は、必要に応じて、急いだり、のんびりしたりすることを使い分けられますが、ゆっくりしかできないというのでは、素早さを必要としたときに困ります。
 教室にその日のスケジュールを秒単位で書いておき、その通りに実行するのは効果的です。
 例えば、5時に授業が始まる場合なら、
 5時00分00秒 入室、練習準備(3分)
 5時03分00秒 乗算(5分)開始
 5時08分05秒 除算(5分)開始
 5時13分10秒 見取算(5分)開始
 5時18分15秒 採点(5分)開始
などと、細かく指示をしておきます。準備ができていなくても待たずに始めます。種目間の間隔は5秒でも長いくらいで、2〜3秒がよいかも。時には、「ヤメ!」がそのまま次の種目の「始め!」を兼ねてもよいでしょう。
 これを行うことにより生徒の行動が機敏になります。表情はイキイキとして、真剣になり、私語はなくなります。ただし、ゲーム感覚で楽しくやらないと、幼児の中には泣き出す子が出てくるかもしれません。

■家庭でのしつけの不足
 少子化で目が行き届き、過保護過世話の家庭が増えています。ライオンが我が子を谷底へ突き落とすようなしつけは流行らないようです。逆に、ガラス細工を扱うように神経質に育ててしまう家庭が増えています。その結果、当然、子どもはガラス細工のように育ってしまいます。
 適度な厳しさと甘さのバランスがとれたしつけが良いのでしょうが、バランスのとれていない人間にバランスのとれたしつけができるはずもありません。
 時代の流れのせいにしたくはないのですが、否定できない部分もあります。昔は、夏は暑く、冬は寒いのが当然で、自然に我慢する訓練ができていました。それが、今はどこへ行っても冷暖房完備、ちょっとでも暑いと「クーラーつけて!」です。そのうち日本全体がドームで覆われ、年中適温になるのでしょうか。
 暮らしが快適になるほど、我慢に対する抵抗力を養う機会が減ります。昔は、江戸から京へも歩いたものですが、現代ではそんな人はいません。新幹線や車がなければ歩くしかありませんが、便利なものがあるのに歩くのは、江戸時代とは比較にならない苦痛を感じるでしょう。
 以前は、自然に身についていたものが、現代ではわざわざ過酷な環境を設定しないと身につきません。温室育ちが世間の寒風をことさら厳しく感じるように、成長段階に快適な環境に置かれることが将来の幸福につながるとは限らないということを若い世代の人は知るべきです。
 家庭でのしつけは、そろばんの指導者が直接できるものではありませんが、保護者に多くの情報を提供し、何が正しいかを伝えていくことが必要なのです。

■本人の意欲の欠如
 物事を継続していく経過において、感情の起伏はあって当然です。ましてや子どもであればそれが顕著です。やる気満々の時期もあれば、どうにも気力がわかない時期もあるでしょう。
 やる気があり、好循環の時はさほど心配はないのですが、そこで一気に力を使い切るか、後にくるであろう不調時のために、余力を残しておくかは大事な分かれ目です。燃え尽きさせて失敗した例もたくさんあるのです。
 気力がわかない時期は大変です。年齢が高ければ、どうにかしようという自覚を持って、あの手この手と工夫をする場合もあるのですが、年齢が低いとどうにもなりません。嫌なものは嫌の一点張りです。本人がどうにも解決できない時こそ、保護者や指導者の出番です。これといった秘策はありませんが様々な角度からの言葉掛けや、環境を変えて対応することが必要です。期間がかかる場合もありますが、周囲があきらめずにねばり強く接することです。時には、思い切り怒鳴ったら一変したというケースもあります。押してもだめなら引いてみることです。

■精神年齢の低さ
 昔は15歳で元服、現在は20歳の成人式、どちらも大人の仲間入りをする儀式ですが、時代の流れとともに、精神年齢はさがってきています。超高齢化社会に向かって突き進む日本ですから、精神的に若くあるのはよいのでしょうが、若いと言うよりも幼稚という感じがしてなりません。1億総幼児化傾向とも言われています。
 精神的な成熟度を高めることこそが、現状から一歩先んじる大きな武器と成り得ます。その方法の一つが『自己否定』です。自己評価で合格点をつけてはいけないのです。
 日本の将来を担う子どもたちへの教育に携わっているという自覚を強く持ち、今以上に内容のある指導を心がけましょう。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2004年4月号 連載第26回
【生徒の本音】
 某公立高校で『学校に望むこと』というテーマで在校生にアンケートをとりました。学校の設備や環境面について様々な意見が出ましたが、教師に関する要望も数多くありました。教師関連に限定して主なものを羅列してみましょう。
--------------------------------------------------------------------------
・わかりやすい授業をしてほしい。
・良い授業のできる先生を集めてほしい。
・楽しく興味の持てる授業をしてください。
・授業をしっかりやってほしい。
・わからない人のための補習をやってほしい。
・先生を選択する制度がほしい。
・質問にもう少し丁寧に答えてほしい。
・先生の能力の低下が気になるので見直しを。
・質の悪い教師がいる。
・公立の教師がクビにならないのはおかしい。
・もっと真面目に授業をしてください。
・先生の通知表をつけさせてほしい。
・若い先生を増やしてほしい。
・雑談が多く授業の進まない先生をやめさせて。
・先生の気合いが足りない。
・生徒の気持ちをわかってほしい。
・生徒が授業を選びたい。
・良い先生と悪い先生との差がありすぎる。
・授業内容や方法を工夫してほしい。
・先生にあまり向上心が見られない。
・生徒を公平な目でみてほしい。
・教育内容の改善をしてほしい。
・教師としてどうなの?と思う人がいる。
--------------------------------------------------------------------------
 以上は、数百の回答の中のほんの一部です。
「満足している」とか「生徒を信頼してくれているのが嬉しい」という肯定的な意見もあるのですが、あえて「望むこと」を集めてみると、無記名ということもあり結構過激になります。
 進学を目指す受験期の生徒がおり、目的がはっきりしているため、それに合わない不熱心な教師に対する批判となっているようです。こうした高校生の要望を「もっともだ」と思うか、「生意気だ」と思うか、どちらでしょうか。
これが進学予備校であるならば、生徒たちの要望はほぼ通るのではないかとも思います。

【憎まれ役も必要】
 珠算教室で同様のアンケートをとったらどうでしょう。対象が小学生であったならば、これほどのキツイ意見はないでしょう。年端がいかないほど、表現力が乏しいのはもちろんのこと、指導者に対する疑問自体を持たないものです。
 年齢が上がるにつれて、人を評価することができるようになりますが、最初のうちは感情だけで相手を判断してしまいます。つまり、好きか嫌いかということです。したがって、この時期には本人のためを思って、苦言を呈する人は煙たがられます。むしろ、子どもの考えに合わせた方が関係そのものはうまくいくのです。人間誰でも、自分の考えに同調してくれる人と一緒にいた方が居心地がいいのです。
しかし、教育には憎まれ役も必要なのです。社会にはルールがあり、思い通りにならないことがあるということを伝えるのも教育です。
 昔は、兄弟ゲンカなどでかなり鍛えられた部分があります。些細なことで争いが始まり、殴り合ったり蹴り合ったりしたものです。納得できない理不尽なことでも力関係で我慢を強いられることもありました。どんなに悔しくて地団駄を踏んでも通用しません。そんな体験も成長過程には必要なことであり、ほとんどの人が通ってきた道ですが、少子化で大切に育てられている現代では、そんな機会が少なくなっています。あえて機会を作る必要があるのです。
 憎まれ役と言うと言葉が悪いのですが、最適なのはやはり家族、特に親です。しかし、最近は子どもの機嫌を取る親が増えてきています。
 珠算指導者が、憎まれ役をやるのはかなり難しいでしょう。致命的なのは接する時間の絶対量の少なさです。週に数時間では、何から何までというわけにはいきません。信頼関係があり、明確な上下関係があってこそ指導ができるのであり、それが確立されないまま無理な指導をすると関係が悪化する可能性が高くなります。
 魅力のある人間、仕事のできる人間、思いやりのある人間の多くは、成長期に厳しい指導を受けたり、逆境を克服したり、大変な努力をしたりしています。そうしたことがなければ、人間としての厚みや深さを増すことはできないということなのでしょう。

【得意な年代を広くしよう】
 1年か2年ごとにクラス替えがあり担任が代わる学校と違い、珠算教室は通っている限り指導者は代わりません。小学校に入ったばかりの子が習い始めて10年経てば高校生になります。
 小学校は6年間、中学と高校が3年間ですが、学校教員の多くは、年間を通じてある特定の年代の生徒に授業を行います。これに対し、珠算教室の指導者は1日の中で幅広い年代の生徒と接します。幼児から中・高校生、あるいは成人までの各年代に対する態度は当然違ってきます。いつもは低学年の多い時間帯に来る生徒が、何かの都合で高学年の多い遅い時間帯に来た時など、同じ指導者の表情や言葉遣いがまったく別人のように感じ、驚くこともあるようです。
 指導者が授業を行うに当たり、それぞれ得意とする年代があります。幼児から成人まで、何でもござれ・・・・が理想ですが難しいものです。
 幼児を指導するには、面倒見がよく、細かいことに気が回り、根気良い指導が必要です。許容範囲が広く、気が長くなくてはなりません。また、比較的年代の高い生徒に指導するには、大局的な視点と、論理的な思考回路を持つことが重要です。説得力のある話術も必要です。
 幼児と、年代の高い生徒という分け方をしましたが、このままそっくり下級生と上級生とに置き換えても同様のことが言えるでしょう。
 幼児だけを得意とする指導者の教室には、中・高校生が残りにくくなります。必然的に、在籍年数は短く、上級者は育たなくなります。
 逆に、年代の高い生徒だけを得意とする教室は、長期間在籍し上級まで進む生徒はいるものの、入学後短期間での退塾者が多いのです。
 幼児も、年代の高い生徒も、どちらも不得手というのは論外ですが、片方だけ得意というのもそろばんの先生として不適格でしょう。
 物事には、2つの事柄のうちどちらかができれば良し、というものと、両方できないと意味がないものとがあります。
 例えば、野球の内野手。どんなにゴロを捕るのが上手でも、一塁への送球が下手ではアウトにはできません。逆に、送球が正確でも、ゴロが捕れなければやはり使えません。2つの要素がどちらもできてこそ価値があるのです。
 珠算の指導も、上級と下級の両方ができてこそ一人前と考えます。下級だけの指導では、珠算技術のすごさ、感動、驚きを世間に伝えられません。また、上級者を育てられても、その過程において、多くの生徒を取りこぼし、犠牲にしていたのでは、珠算嫌いを多く生産してしまっていることになります。
 多くの珠算指導者が、幼児から成人まで何でもござれ・・・・となることが必要なのです。
【逆サイドからの視点も必要】
 月刊誌というのは、時事的な話題を扱うにはまったく不都合なものでして、書いている時と発行時とでは状況がまったく異なっている場合も少なくありません。これから書くことも、そんな話題であり、読まれる時点では、新鮮味に欠けるでしょうが、どうかご容赦ください。
 某国会議員の経歴詐称問題は、米国の大学を卒業しなかったことで騒がれました。さらには、BSE感染による米国産牛肉の輸入禁止による大騒動も、日本中を大いに賑わしました。
 これらに代表されるように、日本のマスコミの報道は一方向に偏っているように思えてなりません。逆方向からの見方もあるのでしょうがなかなか聞こえてはきません。
 経歴詐称がいけないのはもちろんですが、責任をとって辞めるという選択だけでなく、信用回復のために誠心誠意がんばるような方向性を認める意見があっても良いはずです。政治家として、正直で無能なのと、ハッタリがある有能な人間とではどちらが良いか意見は分かれます。
 昨年暮れに米国でBSE感染牛が1頭発見され、即座に全面輸入禁止となりました。大変素早い対応であることは評価できます。しかし、あまりにも神経質すぎるとも考えられます。この稿を書いている現在、日本が全頭検査を要求しているのに対し、米国は「幼児にアルツハイマーの検査をするのと同様、科学的根拠もない」と反論しています。現に米国国内では牛肉は通常に流通しています。輸入牛肉を食べて病気になるよりも、登山での遭難や、海難事故や交通事故に遭う確率の方がはるかに高いのです。
 私がそう思うというのではなく、そのような考え方もあるということです。
 伝聞や風評、想像をそのまま鵜呑みにするのではなく、逆のサイドに立ったつもりで物事を見ることは必要です。こうした感覚は、時として、単なる天の邪鬼か判官贔屓と見られますが、先入観を持つことにより、物事の本質を見誤ることがあることを知るべきです。
【狩猟民族と農耕民族との違い】
 なぜ、日本人の物の考え方が一方向に成りがちなのかを説明するのに、元来が農耕民族であるからだと考えると辻褄が合います。
 農耕民族が生きるためには、皆で協力する調和と集団中心の縦社会が必要だったのです。異質なものに対しては排他的でした。国境線を持たない島国の孤立性や、単一民族国家であったこともその傾向に拍車をかけたのです。そんな歴史を通じて、日本人は周囲の動向を窺い、真似をして生活するという習慣ができたのです。
 一方、欧米の狩猟民族は、周囲の人々と同じことをやっていたのでは獲物にありつけず、それぞれが工夫をする必要があり、必然的に個人主義、個人の権利が浸透していったのです。
 農耕民族も、狩猟民族も、それぞれ文明が発達し、交流が盛んになり、境界線が曖昧になってきました。文化と文化が交わる時に摩擦が生じるのは仕方のないことでしょう。
 いずれにせよ、価値観が多様化している現在、柔軟な考えを持てる方が有利でもあり、社会からも要求されます。自分以外の価値観も認めることのできる懐の深さが大切となります。もちろん、結論を一つに絞らなくてはいけないことに関しては、この話は当てはまりません。
-------------------------------------------------------------------------
 さて、上記の文章にケチをつけてみましょう。まずは、日本人を農耕民族と決めつけることに反論できます。そもそも、日本が農本主義になったのは律令体制以来であり、古来から農耕民族であったと言い切ることはできません。
 島国の孤立性というのも否定できます。昔から中国大陸や朝鮮半島と強い関係があり、日本海や東シナ海が文化や物の搬送に利用されていたことは孤立性とはかけ離れています。
 さらに言えば、単一民族国家というのも、明治以降の植民地支配の歴史や、その延長線上にある在日外国人問題を考えれば否定できます。
 視点を変えることにより、話をまったく別の方向に展開させ、こじつけることもできます。

【誤答を減らすには!】
 さて、現実に戻り、教室に目を転じましょう。
 「正しい計算」は絶対に必要ですが、中には誤答の多い生徒もいます。どうしましょう?
 誤答の原因を正しく把握・分析し、適切な指導をする必要があります。技術的に問題がある場合と、精神面が原因の場合とがあります。
 初級者の中には、「100−2」が88になったり、「14−7」が6になってしまう生徒がいます。これは反復練習の不足が原因です。完全に理解する前に次の段階に進んだことによる弊害です。また、一度は完全に覚えたはずのことが、ある日突然、忘れてしまう場合もあります。指導者自らが個人個人の状況を把握していなければなりません。1回の授業の中でも、目を離すと元の誤った癖に戻ってしまうこともあります。
 運珠の勘違いなどのように、誤答の原因がはっきりしていれば対処法は比較的簡単です。一方、技術的には問題がないのに誤答が多い生徒を治療するのは結構厄介なものです。
 「今から見取算を10題やる! 自分で何題間違えるか予想してみよう」。「3題以上間違えると思う人?」「じゃあ2題は?」「1題?」「全問正答と思う人?」と聞き、挙手させます。
 ここで、全問正答予想の生徒は大いに褒めちぎり、1題以上の誤答を予想した生徒には喝を入れます。練習前の話によって効果は違います。
 「やる前から間違えると思って練習するなんてとんでもない! 間違えると思うから間違えるんだ。よ〜く数字を見て正しく計算すれば合うに決まってるだろ。もう1回聞くぞ! 間違えると思う人は手を挙げなさい」
 それでも挙手をする生徒がいます。「何を聞いてるんだ。間違えると思ったらダメなんだ」
「だって、間違えるような気がするんだもん」「それがいけないんだ。強がりでもいいから、絶対に全問合わせるって言ってみな」「そんなこと言えないよ」「言ったら全部合うんだけどなぁ」「ホントなの?」「た、たぶん・・・・」
 文章ではニュアンスが伝わりませんが、怒ったり、威嚇したりしているのではありません。
 「1題間違えたら1発なぐるというルールにしよう」「いやだ、そんなの」「じゃあ、1題間違えたら罰金1万円」「それも、だめだよ」
 「そうだね。暴力はいけないし罰金制度もよくないね。でも、そのつもりでやれば答は合う」
 「わかった。そのつもりでやってみる」「どうせ“つもり”だから適当にやろう、と思ったら効果はないぞ。ついでに、数字は最高に丁寧に書いてみな。答の書き直しは絶対にしないように」「本当に全問合うかなぁ?」「全問合わそうなんて欲張らずに1題だけ絶対合わせよう」「???」「1番だけ合わせるんだ! 2番以降のことは考えるな」「それで?」「1番の答を書いたら、2番に集中するんだ。2番だけを合わせればいい。1番のことも3番以降のことも考えるなよ! その1題だけを合わせるんだ」
 「絶対に合わせる」という気にさせてから計時をすれば、正答率は飛躍的に上昇します。
 「先生の言うことを聞く子と聞かない子とどっちがいい子だ?」「そりゃあ、聞く子だよ」「そうだよね。じゃあ、“間違えるな”って言ってるんだから素直に聞きなさい!?」
 自信を持って物事に臨むのと、不安を持って臨むのとでは結果に大きな差がでます。過信は禁物ですが適度の自信は必要なことです。実力がつくにつれて、徐々に自信がついていくのが一般的ですが、生徒の自信の持ち方は、指導者の接し方でどうにでも調節できます。
 多少天狗になりかかっている生徒の鼻をへし折るのは、「それぐらいできて何が偉いんだ。全然たいしたことないぞ」的に高圧的に接することです。世の中にはもっともっとすごい人がたくさんいるんだ、という例をあげて、理論武装と比較論を展開すれば簡単です。
 逆に、自信の持てない生徒には、実際には指導者が手助けをしても、自力でできたように見せかけて「ほら、自分でできるじゃないか」的に接するのが効果的でしょう。
 今月も、尻切れトンボで終わります。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2004年5月号 連載第27回
【話すということ】
 人間が意志を伝える一般的な手段は、「話す」「書く」の2通りしかありません。身振り手振りはもどかしいですし、手話は外国語を覚えるのと同様の努力が必要です。テレパシーとなると完全に特殊能力でしょう。
 「話す」ことは、誰もが日常的に行うことです。家族や親しい友人との会話で、緊張するという人は余りいません。
 ところが、「人前で」という条件がつくと、途端に平常心を失う人がいます。初対面のグループで自己紹介をするような場面があると、順番が近づくにつれ、落ち着かなくなり心臓がバクバクと高鳴るのです。
 『巧みな話術』を身につけることは多くの人が憧れます。特に珠算指導者のように話すことが大きなウェートを占める職業においては、大きな武器となります。
さすがに、珠算指導者は日頃生徒たちの前に立っているだけのことはあり、人前で話すことに慣れている人が多いようです。でも、中には、大人の前は苦手という人もいます。
 「口から先に生まれてきた」という表現があります。これは誉め言葉ではありません。口数が多いだけで内容が伴っていなければ、単なる雑音であり、周囲を不快にするだけです。たとえ、口数が少なくても、発する言葉の一言ごとに重みと味があれば、人を惹きつけることができます。しかし、これは大変難しいことです。
 一般的には、つっかえながら話すよりも、『立て板に水』のような流暢な話し方の方が耳に心地よいものです。これも一本調子ではなく、メリハリと適度な間(ま)が印象を良くします。
 話す時には、顔の表情、目線、声の強弱、明瞭な言語、時には全身を使ったジェスチャーも必要でしょう。体全体からにじみ出る雰囲気は、話の内容と同等に大切なことです。
 素晴らしい内容も、話し方が下手ならば台無しです。逆に、大したことのない話題でも、話術によって命が吹き込まれることもあります。
 人を惹きつけるには、「笑わせる」か「感動させる」かでしょう。これは、笑わせることの方が簡単です。可笑しいことを考えることは大変ですが、世の中には楽しく笑えることがいくらでも転がっています。笑いに著作権があるわけではないので、人の言ったことを拝借することもできます。テレビなどは笑いの宝庫です。
 笑わせることは数秒もあれば十分です。一方、「感動させる」にはストーリーが必要なため、ある程度の時間を必要とします。身近なことが琴線に触れるような感動的な美談になれば最高ですが、これまた思いつかなければ、よそからネタを仕入れればよいのです。
 「話す」能力を磨くには、場数を踏むことでしょう。最初から話し上手という人は稀であり、多くは試行錯誤を重ねながら徐々に、人を惹きつける話し方ができるようになっていくものです。数多くの失敗を越えた先に成功があるのであって、失敗せずに成功を得ようというのはあまりにもムシが良すぎます。
 そしてもう一点、上手な話をするのに忘れてならないことは旺盛な『サービス精神』です。

【書くということ】
 「話す」以外の意志伝達手段は「書く」ということですが、これがまた厄介なのです。一般的に、書くことは話すことよりも、莫大なエネルギーを必要とします。書くとなると、まずは筆記用具なりキーボードなりが必要です。目の前に物を準備しなければならないという点で話すこととは違います。
 書くことが、話すことよりも一般的でない最大の理由は、何と言ってもその速度でしょう。400字の原稿を1分で読むことは難しくはありませんが、同じ時間で同量の原稿を書くことは不可能です。
 現在お読みいただいているこの文章も、読む側は1行を数秒ずつのペースでしょう。音読をしている人はまずいないでしょうから、黙読となるともっと速いのです。
 書くといっても、日記のように人目に触れることを前提としないものは、誤字や文法に気を遣う度合いが少なくてすみます。対して、公開されるものとなると、そうはいきません。
 書いた文章が他人にどう思われようがまったく気にならない、という性格の人がいるかどうかは知りませんが、多くの人は周囲の評価を気にしながら書いています。
 繊細な人は、たとえ雑記であったとしても、適切な単語を選択し、表現方法を模索し、少しでも読みやすい文章になるように考えます。ましてや、自分の考えや意見を書くとなると、誤解をされないように、ニュアンスが正しく伝わるように気を遣うでしょう。書いたものを推敲しても、なかなか納得がいきません。多くの時間とエネルギーを使います。したがって、億劫に感じる人が多いのです。
 話したことは聞く側、書いたことは読む側の受け止め方によって左右されるものであり、話し手や書き手の意志に反する場合があります。
 また、話したことは録音をして残すことはできますが、普通はその場限りです。仮に失言をしてもすぐに訂正をすることも可能ですし、大きな広がりにはならない場合がほとんどです。
 これに対して、書いたことは残るのが通常です。話すことよりも評価の対象になりやすく、内容によっては大きな波紋を呼びます。また、書き方によっては、本人の意に反して不遜で高慢な印象を与えることもあります。この文章もそんな印象を持たれているのかもしれません。毎月、ビクビクしながら書いています。
 何も書かなければ、批判を受けることもありません。それが利口な生き方かもしれません。しかし、誰も何も書かなければ、雑誌の発行には至らず、事は始まりません。プロの書き手を除けば、書くことはサービス精神の表れなのです。自己顕示欲を満たす場である、という解釈もできますが、あったとしても一部でしょう。
 書くことは、大切なことでありながら、多くの人にとって大変難しいものです。しかし、近年は、パソコンの電子メールや携帯メールの急速な普及により、若者の間で書くということの概念が変わってきていることを感じます。つまり、話すこととまったく同じ感覚で書くのです。
 むしろ、書くというよりも、打つという表現が正しいのでしょう。
 書くことに関して構えてしまうのは、若い時代にパソコンや携帯電話のなかった世代のようです。サンライズのホームペーシには掲示板という場所があり、誰でも自由に匿名で書き込むことができます。本来、そろばんの先生方間の情報交換のつもりで開設したのですが、若者たちの書き込みでにぎわっています。珠算を愛する若者がいることは本当に嬉しいことです。珠算界の明るい未来のためには、珠算指導者がこうした若者を大切にすることが必要と思います。
 日頃、『読み・書き・そろばん』という教育の基本が大切であることを唱えている私たちは、有言実行でなければなりません。
 珠算指導者の多くが、書く訓練を積んで、事あるごとに社会に訴えれば、珠算に対する世間の見方も変わるのです。書かないこと、書けないことを放置したままではいけないのです。

【ラーメン業界の競争】
食べることは、生きていくための基本であり、欠かすことができません。また、人間の欲望はとどまるところを知らず、単に空腹を満たすだけでは飽きたらず、少しでも質の高い、味の良い食べ物を模索し研究し続けています。
 どんな業界でも生き残るために様々な工夫をするであろうことは想像に難くありません。部外者にはわからないそれぞれの苦労があります。
 ここでは、テレビ等でも度々取り上げられるラーメン業界の熾烈な競争について書いてみます。珠算界の競争と比べてどうでしょうか。
 テレビのゴールデンタイムでは『ラーメンの美味しい店のランク付け』的な番組が放映されることがあります。偶々そんな番組を見ることがありますが、いろいろと考えさせられます。
 札幌に代表されるラーメン横町や、新横浜のラーメン博物館などをはじめ、狭い範囲に多数のラーメン店がひしめき合う地域は、決して珍しくはないでしょう。それぞれの店が、味と価格で他店との差別化をはかり、客を獲得しようと競争します。生活がかかっているわけですから必死です。良い味を提供するために日夜努力を重ねますが、最大限の努力をしたところで生き残れる保証はありません。結果は単純明快、力のあるところが勝ち残るのです。
 こうした競争では独りよがりは通用しません。自分の店の味や値段に自信を持っていても、支持されなければどうにもなりません。判断するのは客なのです。
 先日、テレビで観た一場面です。人気店には行列ができているのに、隣の店では閑古鳥が鳴いているという光景が映し出されていました。実力の世界の厳しさを思い知らされます。しかし、ここで最終決着がついたわけではありません。劣勢な店の店主は、一旦休業し、その間に修行をやり直すのです。プライドを捨て、他の都市の人気店に弟子入りし、はるかに年下の人間に頭を下げ、怒鳴られ叱られながら耐えるのです。そして秘伝の味付けを覚え、再び元の地に帰り、再度勝負を挑むのです。隣の人気店に対しては、圧倒的なリベンジという訳にはいきませんでしたが、そこそこの客を確保することができていたようです。
 自由競争の社会では、隣に同業者が開業しても文句は言えません。イヤ、文句を言うのは勝手ですが、法律的に規制はできないのです。
 都会の繁華街では同業者が乱立する光景を見ることは決して珍しくはありません。当然なのです。近所の店の営業の妨害になるから遠慮しておこう、というお人好しでは、こうした熾烈な競争社会で生き抜くことはできないのです。

【珠算界の競争】
 その昔、子どもたちの習い事といったら、そろばんと習字でした。都会の下町では珠算教室同士が近くにあり、互いの読上算の声が聞こえたという地域もあったそうです。
 また、人目のない夜中に街中をまわり、生徒募集のポスターを電柱等に貼っておくと、次の日には、ライバルの教室が上から重ねて貼ったそうです。その次の日には再びその上に重ねて貼ったという話も聞いたことがあります。
 上記の話から、元気さが伝わってくることは確かです。ただ、珠算指導は教育産業であるわけですから、事の善悪や方法論も考えなくてはなりません。なりふり構わずというのは、あまりに品格がなく、生徒や保護者に良い印象は与えないでしょう。しかし、『武士は食わねど高楊枝』のように、格好をつけていられる時代でもありません。兼ね合いが難しいところです。
 大手学習塾などは、駅前にかなりの密度で存在しています。前述のラーメン店と同様に、少しでも質の高いサービスを提供しようという気迫が伝わってきます。すべて、競争原理のなせる業であり、消費者である生徒や保護者にとって、サービス向上合戦は好都合です。
 私たち珠算指導者も他業種に負けないよう、正義感、高いプロ意識、サービス精神を持って子どもたちの指導に当たらなくてはなりません。

【アバカスサーキット】
 「そろばん」のことを英語で「abacus=アバカス」と言います。「えっ、そうだったの?」という人もおられるでしょう。ちなみに複数形は「abaci=アバサイ」です。サンライズの『アバカスサーキット』は毎月の誌面で、17ページを占めていることからお分かりのように、本誌が自信を持って推奨できる教材です。毎月の本戦参加は、およそ150団体で3000名超ですが、各教室でどの程度ご利用いただいているのかは把握しようがありません。
 この『サーキット』にご参加することにより、サンライズをより身近に感じていただけるでしょうし、利用価値も大幅に高まるでしょう。
 「毎月利用しているけど効果がない」という方がいるかもしれません。これは「月に1回、運動をしてるけどダイエットの効果がない」というのと同じです。機会あるごとに繰り返し行ってこそ効果が出てくるものです。
 「暗算で計算したら1問2点、そろばんを使用したら1問1点」という配点のため、生徒の多くは暗算で計算したがります。ここで見逃してならないのは、暗算導入時に『珠算式暗算以外の方法』で計算してしまう癖がつくことです。主に筆算式暗算ですが、こうした生徒は、最初のうちはそこそこ順調に点数を伸ばしますが、ある時期でピタリと伸びが止まってしまいます。
 また、珠算式暗算であっても、乗算の答を下位桁から部分的に書いたり、見取算を1桁ずつ分割してやっていたのではやはり伸びません。
 珠算式暗算上達のための基本中の基本は、そろばん玉をイメージすることですから、最初は「透明そろばん」をはじくことです。つまり、そろばんでやるのと同様に指を動かすように指導します。指先の動きを見ていれば、正しくやっているかどうかもわかります。ここをしっかり見ていないと、自己流の安易なやり方になる生徒もいます。指導者が気付かずにいて行き詰まってからの発見では、矯正するのは大変ですし、大幅な遠回りになり本人がかわいそうです。
 私の教室では、例えば、生徒がF2の見取算の10番まで(2桁3口)を暗算でやるのは、同程度の読上暗算ができることが条件です。これも読み終えてから、すぐに答えられるような訓練が必要で、しばらく考えから答えるのは途中の段階と判断します。乗算も上位桁から計算し答の全体像が浮かんでから一気に書くように指導します。途中で考えながら書くことはしつこく注意します。上位桁から部分的に答を書くのは高段位になってからです。
 誰でも、易しい問題はできて、難しい問題はできないものです。ということは、徐々に程度を上げていった場合、「できる・できない」の境目があります。ここが重要なポイントです。
 ここの部分の練習を重点的にやることです。「2桁×2桁」はできるが「3桁×2桁」はできない、という分け方が一般的でしょうが、「67×87」と「123×21」では後者を易しく感じる生徒の方が多いでしょう。
 例えば「2桁×2桁」は乗算九九を4回使いますが、暗算できない場合、どの部分でわからなくなるか、というのが「できる・できない」の境目です。その部分に特に神経を集中すれば、1歩先に進むことができるようになります。
 こうした練習を繰り返し、1カ月毎のアバカスサーキット本戦を迎えるわけです。常識的に考えれば1カ月前の自分よりは進歩しているのですから、得点は上がるはずです。ところが、順調に上がらない場合もあります。その原因を突き止め、軌道修正し、また1カ月後の得点アップを目指します。このように定期的に行われる本戦を目標にすることは、上達のためにも、興味を持ち続けるためにも必要なことです。
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 アバカスサーキットは毎月28日が締切です。途中参加もできますが、平成16年度前期初戦は4月28日締切です。練習としてのご利用も歓迎ですが、本戦参加はさらに大歓迎です。急げばまだ間に合います。奮ってご参加ください。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2004年7月号 連載第29回
【検定試験】
 各連盟それぞれ年に数回の珠算検定試験があり、珠算教室に通う多くの子どもたちは、それらの検定を受験します。検定に合格するということは、練習の成果を客観的に知る便利な手段です。数十年前のように、就職に有利といったことはありませんが、合格が子どもたちにとって大きな喜びであることに変わりはありません。
 受験後、数日して結果発表の時がやってきます。結果は、2つに1つ、合格か不合格です。下級のうちは受験者全員合格ということもあるでしょうが、上級になるとそうもいきません。上級の合格率の全国平均が50%に達していないわけですから、合格者よりも不合格者の方が多いのです。
 検定までの模擬問題の練習状況で、本人も指導者もある程度は結果の予想がつきます。制限時間内に余裕で計算が終わりほとんどミスがなければ、合格の可能性が高いでしょうし、解答欄が半分も埋まらない状態では合格はほど遠いのです。実力そのものが当落線上の場合だけは、予想がつきにくく、検定当日の調子や精神状態によって結果が左右されます。
 本人にとって一番ショックなのは、検定本番で手応えがあり、発表までは合格だと信じ込んでいたのに、実は不合格だったという時です。
 果たして、結果を本人にどのように知らせればよいのでしょう。いろいろな性格の子がいるわけですから気を遣わなければなりません。
 申込の時点から、練習期間、そして検定試験が終わるまでは、「絶対合格する」という気持ちを強く持たせることが大切です。気持ちが強いほど練習に集中でき、合格が実現する可能性が高くなります。
 「真剣に練習しよう。真剣の意味がわかる?真の剣だよ。本物の剣で斬り合いをするつもりにならないといけない。新聞紙を丸めた刀でチャンバラをするような気持ちではだめなんだ。1つ間違えたら斬られると思って練習しよう」
 「必死に練習しよう。必死の意味がわかる?必ず死ぬと書くんだ。練習が終わったら必ず死んでしまうぐらい本気でやるんだ。みんなまだ生きてるということは、必死になっていないんだ! な〜んて、本当に死んだら大変だね」
 指導者、受験者ともども「何が何でも合格」という目標を持つことにより、技術も精神力も高めることができます。
 反対に、試験が終わってから発表までの期間は、できるだけ期待を持たせないようにします。合格を期待させてしまうと、落ちた時のショックは大きいものです。試験前とは、言ってることも態度もガラリと変わります。矛盾もありますが、それでいいのです。
 「終わってしまったことを、あれこれ言っても結果は変わらない。悪いところを反省して次回に備えるのはいいけど、今回の試験は今さらどうにもならない。あきらめよう」
 日頃から、目の前の試験は通過点であることはよく話しておくべきです。また、試験というものは、読んで字の如く、「試」も「験」も「ためす」という意味なのです。受かるか落ちるかよりも「ためす」ことに価値があります。 まずは、挑戦してみることです。しかし、最初から「参加することに意義がある」という考えは予防線を張っており後ろ向きです。これでは、「まだ実力不足だから、受験は先延ばしにしよう」というのと大差ありません。
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 俯瞰的視点から、極論を言ってしまえば、目先の珠算検定における合否などどちらでもいいのです。検定の合否が人生を左右するような場合であれば、結果は一大事ですが、そんなことはめったにありません。合格すれば次回はさらに上級を目指せばよいし、不合格ならば再チャレンジするだけのことです。
 合格することにより、成就感や満足感を得ることは自信になりますし、気分が良いものです。
 一方、不合格は本当に残念ですが、長い目でみれば良い体験に違いありません。実際その通りなのですが、そう言えるのは、当事者でないからであり、本人にとって、発表直後はそんな余裕はありません。気にするタイプの性格であれば、大変な人生の試練であり、ぶつけようのないモヤモヤや苛立たしさ、不快感が心を支配します。そんな状況の中で、反骨精神を持ち、失敗を次回へのエネルギーに転嫁できればよいのですがそんな子どもばかりではありません。そこから立ち直らせ、再び前向きな気持ちにさせるのも指導者の大切な役割です。
 合格者よりも不合格者の方が多いという現実を伝え、悲劇の主人公は一人だけでないことを理解させます。最高位の十段到達者の中にも、「3級に5回落ちた」「1級合格に10回以上かかった」という人がいることも話します。
 模擬練習ではほぼ100%の確率で合格しながら試験本番で大失敗して不合格という生徒もいれば、まったく逆に、練習中は合格点に届かないのに、本番では神がかり的としか思えない力を発揮して合格してしまう生徒もいます。困ったことですが現実です。どちらが良いのか、意見の分かれるところかもしれません。その場だけのことを考えるか、長期展望かにもよりますし、本人の性格にもよります。練習の成果はほぼ正直に表れるのですが、たまに例外があるというのも、珠算検定に限らず世の中の現実であることを知る経験にもなります。
 試験に対する思い入れの度合いと、結果に対する関心度は比例します。不合格を知って、気の毒なほど落ち込む姿を見るのは辛いものですが、仕方のないことです。突き放したような書き方ですが、落ち込む原因である不合格を合格に変えることはできないわけですから、根本的な解決策はありません。できることはせいぜい慰めの言葉を掛けるぐらいですが、同情して優しい言葉をかけることが本人の落ち込み度合いに拍車をかけてしまうこともあります。
 不合格に対して、本人自ら「ほらね。やっぱり思った通りだ」などと言う生徒がいます。強がる気持ちは判らないこともありませんが、本当にまったくショックを受けず、平然としているのも可愛げがないものです。
 不合格を知らずに順調に上達するのは、技術面だけを考えれば良いことでしょう。しかし、順調過ぎることは時として、マイナス面に作用することがあります。そんな生徒の中には、つまづくことに関する免疫力に欠け、逆境に立たされた時に対処法がわからず、精神的にもろい状態を露呈してしまう場合が見受けられます。
 何度も不合格を続けた後に合格した人の喜びは、早めに合格した人よりも大きいのです。他の不合格者の気持ちも自らの体験にダブらせて、感覚的に理解できるようになります。打ちのめされても立ち直る反骨精神や、他人の辛さや痛みを分かるということは、高い技術や学力と比較しても遜色のない、あるいはそれ以上の「生きる力」になるのです。不合格も決して無駄にはなりません。ただし、指導者は、何度も不合格が続くことによって、他人に嫉妬したり、自信を失って卑屈になってしまうことに最大の注意を払わなくてはなりません。
 以前、私の教室には、生まれつき左手首より先が欠損の障害児が通っていました。伝票算で苦労しながらも8回目の挑戦で日商1級に合格しました(2002年9月号・連載第9回で紹介)。
 教室には、合格時に取材を受け掲載された新聞のコピーを掲示してありますが、無言の説得力があります。この生徒と比べれば健常者が1級に合格できないわけはありません。
 検定試験がある度に、一人ひとりに悲喜交々のドラマがあります。検定は子どもたちの成長過程における、教育の手段として素晴らしい教材の一つと言えるでしょう。
10年以上前の塾報で検定試験について保護者向けに書いた文章がありますので引用します。

【平成4年7月9日発行・塾報第303号より】
 毎度のことながら検定が終わると複雑な思いです。すべての受験者に合格の喜びを与えられなかった無念さがあります。全国平均の合格者が10〜30%ですので、不合格者の方がはるかに多いのですが、当教室からの受験者はあくまでも全員合格が目標です。合格者に定員があるわけではないので、物理的に不可能ではありません。こうした塾報では、「皆さん、よく頑張りました。残念ながら不合格だった人は、あきらめずに次回の合格を目指しましょう」といったコメントが無難であり、私も考えるのが面倒な時などに利用します。差し障りがなく、行を埋めるには便利ですが、具体的な示唆に欠け、気休めにしかなりません。今回は、今後どうすべきなのか、あえて苦言を呈しましょう。
 やはり、不合格者の大部分は、落ちるべくして落ちたのです。練習中の「こうしなさい、ああしなさい」と言うアドバイスは、合格するために必要なことなのです。忠実に守ってこそ良い結果に結びつくのです。珠算学習そのものが潜在能力を引き出すための訓練ですから、時には現在の能力よりもやや高めのことを要求することもあります。しかし、アドバイスと言っても、本人にとって不可能な無理難題を押しつけているわけではありません。
 「名前を呼ばれたら返事をしなさい」と要求したとします。これは、私の感覚では非常に簡単な部類に属します。ところが、別の人にとっては大変難しいことらしいのです。ある保護者のご意見によると「内気で恥ずかしがりで照れ屋の子にとって、声を出して返事をすることは難しい」とのこと。では、そのままで良いのか、となります。消極さは伸びを妨げる大きな要因ですから、本人の性格を変える必要があります。それには周囲(保護者や教師)がその気になることが欠かせません。タイプを決めつけ、その範囲内で解決しようとするから限度があるのです。欠点矯正は年齢が低いほど容易ですが、中学生や高校生になったからといって手遅れということはありません。たとえ、大人であっても自己改革は可能です。できないのは、自分ができないと思いこんでしまう心の弱さにあります。
 基本的に「自分を磨こう」「人間性を高めよう」といった気持ちがなければ進歩はありません。試験の場合、まずは「合格する」という強い信念を持ち、次にそれを実現させるための具体策を考えるのです。その過程において、様々な壁があり、一つ一つクリアしていくことが人間的進歩にもつながるのです。
 「こうしなさい」というアドバイスに対し、「できない」と答えが返ってくる場合があります。そもそも練習とか訓練というものは「できないことをできるようにする」ことが目的であることを認識ください。一人での自己実現が困難な場合、良い結果に結びつく最も易しいと思われる手段は、高いレベルの集団に紛れ込むことです。人間は、良くも悪くも環境に流されやすいものであり、そこに同化する可能性は高くなります。この場合においても、基本的な「気力」と「順応性」は必要です。
 気力は、自然に湧き出てくれば良いのですが、そう都合良くいきません。いつ湧き出るかわからないものを待っている間に時間を浪費してしまいます。奮い立たせる手段を考えるべきです。周囲があらゆるきっかけ作りを講じるのです。プライドをくすぐったり、褒賞を与えるのも手段の一つです。珠算に限っていえば、まずはあらゆる行事に積極的に参加することです。本人が消極的な場合は、周囲が無理にでも勧めることです。慣れないうちは億劫ですが、家族の役目です。そうしていく中から、ある日突然「その気」になり変身するのです。
 一般的な子どもに対するよりも高い次元の要求をしていますが、上級に合格するためには絶対に欠かせないことです。授業日すべてに通えない人は、練習量の不足をどこかでカバーしなくてはなりません。出席した日だけでも長時間練習するというのも一方法です。それができないのなら、人一倍集中して質を高めるのです。いずれにせよ、現況から何かを変えない限り、次回の検定試験においても残念な結果になる確率が高くなります。
 ご家庭におかれましても、ただ漠然と「がんばりなさい」と言っているだけでは、子どもは何をどうすれば良いのかわからないのです。技術面に関しての指導は教室任せで結構ですが、精神面においては、ご家庭の対応が学習効果を大きく左右します。
 「忙しくて子どもにかまっていられない」という人がいます。事情は推察できますが、あまりにも無責任です。一方、過保護や過世話も目につきます。また、大局的視野が持てずに、自分の子どものことしか眼中にないというのも見苦しいものです。大きな問題であり、難しいことですが避けて通ることは許されません。どんな子どもに育つかが親としての評価になります。
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 昔も今も勝手なことを書いているものです。
 突然ですが、ちょうどその頃の、ある生徒のことを思い出しました。どちらかというとおとなしく素直で真面目な小6の女児。1級に申し込んだのです。練習中には全種目満点をとるなど、合格の可能性は極めて高かったのですが、練習中に気合いが伝わってきませんでした。普通にやってはいるものの覇気が感じられないのです。何となく気掛かりではあったのですが、結局そんな状態のまま検定試験が終わりました。発表までの期間に作文を書かせたところ、意外にも、「よくできなかったので落ちたと思う」という残念な内容でした。
 そして迎えた発表の日。彼女は不合格でした。
結果を知った彼女は、ガッカリするわけでもなく笑みすら浮かべて淡々としていました。予想外の反応だったので、本人に聞いてみました。すると、「試験に受かりたくなかったからわざと落ちたの」と言うのです。それまでにそんな例は聞いたことがなく驚きました。理由を問うと、「1級に受かったら親にやめさせられるから」とのことでした。本人はそろばんが好きで、ずっと続けたいという希望がありながら、許されないのです。何度も親の説得を試みたそうですが、徒労に終わったようです。彼女にとって、好きなそろばんを続ける手段は、わざと不合格になる、ということしかなかったのです。
 必死に抵抗した彼女の珠算人生の延命も次の検定まででした。「落ちても受かってもこの試験が最後」と言われたのです。一応、1級には合格して去って行きました。珠算を習わせない方針の家庭の子どもを無理に通わせることはできませんし、やめるというものを無理に引き留めることもできません。無力さを感じました。
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 わざと試験に落ちた話をもう一つ。そろばんではなく小学校の入学試験です。ある男の子、6歳。本人の意志とは無関係に、遠くの小学校を受験させられたそうです。利発で?聡明な?男の子は、本気でやったら合格してしまうと思ったようです。近所の女の子と離れて、遠くまで通うのがイヤだったため、とった手段は何もしないこと。テストは白紙で提出し、面接の時は一言も発しませんでした。そして、本人の念願が叶い、めでたく不合格となったのです。
 この男の子、数十年の時を経て、現在はこのサンライズを発行しています。

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月刊珠算情報誌サンライズに連載の『スタートフロムゼロ』を転載
2004年8月号 連載第30回
 『スタートフロムゼロ』、つまり「ゼロからのスタート」というタイトルのこのコーナーです。物を数える時は1からなので、「スタートは1からではないか」と考える人がいます。「1からやり直し」とか「千里の道も一歩から」など、「最初から」という意味で使われています。日本の高校までの数学では、自然数は1から始まると指導されますが、集合論、論理学、計算機科学などの分野では「0」も自然数のうちに含める場合もあるようです。
 『原点回帰』という言葉もありますが、原点というのは「0」です。こんな「0」と「1」、考えてみるとなかなか興味深いものです。
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 2の0倍と2の0乗について考えましょう。
 2の0倍は「0」です。では、2の0乗は?2を1度も掛けないのだから、「0」と思ってしまう人もいますが、正解は1です。
 生徒を納得させるには次のような説明を行います。2の2乗は2×2で4、2の3乗は2×2×2で8と増えていきますから、逆に2で割れば減ります。2の3乗の8を2で割れば、2の2乗の4になります。4を2で割ると2の1乗で2になります。さらに2で割ると、2の0乗になります。2÷2ですから1です。
 つまり、たしざん的感覚の場合、何もたさないということは「0」ですが(倍はたしざんの積み重ねと解釈します)、乗算的感覚では、何も掛けないことは「1」なのです。言葉を換えて言えば、aに0をたしても、1をかけても、aのままであるということです。
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 数直線を思い浮かべてください。温度計でも結構です。右方向が大きいとすると、左に向かって、3→2→1→0→−1となります。
 ところが、地上3階地下1階という建物では、3階→2階→1階と降りてきて、もう1つ降りると地下1階(−1階)となってしまいます。数直線や温度計とは一致しません。0階はどこへ行ってしまったのでしょう。というように、
 日本ではどこへ行っても0階は存在しません。こうした階の数え方はアメリカも同様ですが、イギリスやフランスでは、家に入り階段を上がったら1階です。つまり、日本でいうところの2階が1階(英語でFirst Floor)になります。日本の1階部分は0階(英語でGround Floor)という表現をします。数直線に一致するのです。
どちらが正しいかを問うているのではありません。それぞれの国の慣習ですから仕方ありません。特に不自由も感じてはいないでしょう。
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 同じ英語でも、数字の単位に違いがあります。
 便宜上、イギリスを英語、アメリカを米語として話を進めます。まず3桁ごとの区切りを英語ではコンマ、米語ではカンマと発音します。
 日本語の数称では、本来4桁ごとにカンマ(私は米語派です)をつけた方が合理的です。そうすれば、カンマごとに、一、万、億、兆、と単位が変わり大変わかりやすいのですが、そろばんの定位点ともども、欧米型の3桁区切りです。したがって、カンマの位置は千、百万、十億、一兆・・・・のところになります。
 日・米・英語の数称をまとめてみました。 
日・米・英語の大きな数字の単位
     日本語 米 語 英 語
10の3乗 thousand thousand
10の6乗 百万 million million
10の9乗 十億 billion −−−−
10の12乗 一兆 trillion billion
10の15乗 千兆 quadrillion −−−−
10の18乗 百京 quintillion trillion
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 カウントダウンの時の「3、2、1、0!」の発音は、「サン、ニィ、イチ、ゼロ」です。どうして、ゼロだけが英語読みなのでしょう。
 ゴルフのテレビ中継などでは、「9アンダー、10アンダー」の数字は、「ナイン、テン」と英語読みですが、11以上になると、突然日本語になります。まさに、♪なんでだろ〜、の世界です。こうした疑問に答えられる人っているのでしょうか? 要は、慣例なのでしょうが、整合性がなく不思議な感じがします。
 世の中、ありとあらゆるものに名称がついていますが、誰がいつ言い始めたのでしょう。机や椅子という言葉も、誰かがどこかで命名したはずです。一人で決めたものなのか、何人かで相談して決めたものなのか、言葉の種類や数は膨大なだけに驚くばかりです。擬音語や擬態語となると、もう訳がわかりません。ぬめぬめ、ぬらぬら、ぬらり、ぬるぬる、ぬるり、ねちねち、ねっちり、ねっとり、ねとねと、ねばねば(気持ち悪くなった方、ごめんなさい)・・・・誰でも何十何百と思いつくでしょうが、これらも語源はあるはずです。それがどのように拡がって定着したのでしょう。
室町時代には、「水がめろめろと流れる」「陽がつるつる昇る」という表現があったようですから、時代とともに言葉は変化するものです。あらぬ方向に話が脱線してしまいました。こんなことを考える私って変でしょうか?
 スタートは「0」からなのか「1」からなのか、という話でした。新年の始まりは1月1日なのに、1日の始まりは1時1分ではなく、0時0分です。結論が出ませんが、きっとこだわらなくても良いことなのでしょう。

【厚さ0.1mmの新聞紙を100回折ったら?】
 「厚さ0.1mmの新聞紙を100回折ったら、どれくらいの厚さになるでしょう。新聞は十分に広いものとします」。さて、計算をせずに感覚で答を予想してみましょう。10センチ? 1m?中には大胆に100kmなんていう人がいるかもしれません。さっそくやってみましょう。
 計算式は『0.1×2の100乗mm』であり、高校の数学で習う対数を使えば、複雑な計算をせずに求められますが、それでは味も素っ気もありません。授業のネタとして使う時は、小学生でもわかるように楽しく説明してあげましょう。
 元が0.1mmですから、1回折ると0.2mmです。2回で0.4mm、3回で0.8mm、4回で1.6mm、5回で3.2mm、6回で6.4mm、7回で12.8mm、8回で25.6mm、9回で51.2mm、10回で102.4mmです。
 単位を変えましょう。10回で10.24cmですから約0.1mです。11回で0.2m、12回で0.4m、13回で0.8m、14回で1.6m、15回で3.2m、16回で6.4m、17回で12.8m、18回で25.6m、19回で51.2m、20回折ると102.4mになります。10回ごとに概数にしましょう。端数処理をしないととんでもないことになってしまいます。
 すごい数字になってきました。おそらくほとんどの人の予想をはるかに超えてしまっているでしょう。もちろん、既に本当に折ることはできなくなっています。10回の時点では約10cmですので、使いかけの鉛筆の長さぐらいです。14回で1.6mですから大半の子どもたちの身長を超えます。19回で約50m、子どもたちは50m走があるのでまだ感覚的に想像はつくでしょう。さて先を続けましょう。
 20回で約100mですから0.1kmとしましょう。21回で0.2km、22回で0.4km、23回で0.8km、24回で1.6km、25回で3.2km、26回で6.4km、27回で12.8km、28回で25.6km、29回で51.2km、30回で102.4kmとなります。
 2の10乗は1024ですから、10回折るごとに約1000倍の厚さになる、と考えると計算が楽です。元の厚さ0.1mmの新聞紙を、10回折ると約10cm、20回で約100m、30回で約100kmです。計算を続けましょう。40回で10万km、50回で1億km、60回で1000億km、70回で100兆km、80回で10京(けい)km、90回で1垓(がい)km、そして100回折ると1000垓kmの厚さになります。
 厚さ0.1mmの新聞紙は『100回も折れるわけがない』、というのが正解ですが、せっかくの計算が無駄になってしまいます。『計算上では厚さは約1000垓kmになる』というのが正解です。
 計算が面倒なので、10回折るごとに概数にしましたが、末尾まで計算するとどうなるでしょう。つまり『0.1×2の100乗mm』です。なんと、
 126,765,060,022,822,940,149,670.3205376kmです。
 kmの単位で表しましたが、mm単位ですと、小数点の位置が右端の7と6の間となります。計算が合っているかどうかはご確認ください。
 ところで「1000垓km」という厚さ、長さ、距離を実感できる人はいるのでしょうか。1兆kmの1000億倍と言われても全然ピンと来ません。
 地球から月までの距離は約38万kmですので、新聞紙を42回ほど折った厚さです。太陽までは約1.5億kmですので、50回から51回折ったところです。ここでは、1回折るだけで1億kmの厚さが2億kmになるのですからスケールの大きな話です。なお、大変危険ですので良い子は決して試してはいけません??? 試せませんね。
 光の速さは秒速約30万kmです。「えっ、50mを8秒で走る? 光は1秒で地球を7周半するのだから光の方がちょっと速いね」。生徒に話す時はこんな話も交えます。「ひかり」よりも「のぞみ」の方が速いというのは屁理屈です。 まぁ、難しい話は、時々脱線するくらいの方が、聞きやすいこともあります。
 さて、先の「1000垓km」を光速で進むと、どれくらいの時間がかかるのでしょう。計算してみましょう。
 秒速30万kmですから60倍して分速1800万km、さらに60倍して時速10億8000万km、24倍して1日に259億2000万km、365倍して1年に9兆4608億km進みます。光が1年かかって進むこの距離を『1光年』という単位で表します。約9兆5千億kmです。
1000垓÷9兆5千億=約105億です。つまり光速で105億光年となります。宇宙の果てまでは100億〜150億光年と言われていますので、ほぼその距離に匹敵します。新聞紙を100回折るということは、とんでもないことなのです。

【宇宙カレンダー】
 宇宙の歴史を150億年と想定します。あまりに長すぎるのでこれを1年に圧縮しましょう。宇宙の始まりを1月1日、現在を12月31日の夜の12時とすると、現実感が湧きます。
1月1日 ビッグバン(宇宙の始まり)
5月1日 銀河系の生成
9月9日 太陽系の生成
9月14日 地球の生成
9月25日 地球上に最古の生命誕生
12月1日 地球の大気中に酸素蓄積が始まる
12月21日 最初の昆虫。動物が陸上に進出
12月24日 最初の恐竜が登場
12月28日 恐竜の絶滅
12月31日 いよいよ最後の1日となりました。
 13:30 類人猿登場(猿と人の共通の祖先)
 22:30 最初の人類登場
 23:46 北京原人が火を使用し始める
 23:56 最後の氷河期が始まる
 23:59:20 農業が始まる
 23:59:35 新石器文明が始まる
 23:59:50 古代国家の成立
 23:59:56 ローマ帝国、キリスト誕生
 23:59:57 ゼロ、十進法発明
 23:59:59 欧州ルネサンス、大航海時代
 そして、現在を迎えているのです。
 150億年を1年にするのですから、1日は約4000万年、1秒は475年に相当します。となると、一人の人間の寿命はせいぜい0.2秒です。短!

【宇宙の広さを実感しよう】
 「地球の大きさを、何とかに例えると・・・・」という類の話は結構ありますが、その話です。宇宙の大きさを実感するためには、身近なもののサイズに縮小するのが解りやすいのです。
 まずは、太陽系です。原寸を10億分の1に縮小すると、少しは現実味があるかもしれません。
太陽系を10億分の1に縮小
太陽からの距離 直径
太陽 --- 139.2cm
水星 58m 0.5cm
金星 108m 1.2cm
地球 150m 1.3cm
(月) ※0.38m 0.3cm
火星 228m 0.7cm
木星 778m 14.3cm
土星 1427m 12.1cm
天王星 2871m 5.1cm
海王星 4497m 4.9cm
冥王星 5913m 0.2cm
※月は地球からの距離

 野球場のホームべース上に直径140cmの太陽を置くと飛距離150mの場外ホームランの落下地点に地球があります。ただし、地球は直径1.3cmで、パチンコ玉(直径1.1cm)程度です。月は地球から38cm離れ、直径0.3cmということになります。最も遠い冥王星までは約6kmという計算です。
 さて、冥王星を過ぎるとしばらく何もありません。太陽系外の最も近い恒星であるケンタウルス座のアルファ星までは4.3光年です。10億分の1に縮小しても、太陽からの距離は、なんと4万kmです。野球場を出発して6km先の冥王星を過ぎると、その後はほぼ地球1周分の距離の間は何もないのです。
 10億分の1の縮小ではとても間に合いません。太陽の直径を1mmとしましょう。地球は太陽から10.7cmのところを回りますが直径0.009mmになってしまい見えません。冥王星までは4.2m、ケンタウルス座のアルファ星まで29.3kmです。この縮尺ですと、円盤状の銀河系の幅は68万km、厚さは10万kmになります。太陽から銀河の中心までは20万kmです。有名なお隣のアンドロメダ大星雲までは1500万kmになります。
 こうなったら、思い切って太陽系を1mmにしましょう。太陽は0.0002mmです。ケンタウルス座のアルファ星までは6.8m、銀河の幅は160kmです。アンドロメダまでは3680km、そして150億光年先の宇宙の果ては2400万kmになります。
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■宇宙空間全体の平均混雑度は「太平洋にスイカ3個」「ヨーロッパ大陸に蜂が3匹」「1辺30kmの立方体に砂が一粒」程度と言われます。
■太陽系を1円玉とすると、銀河系は札幌から鹿児島までの広がりがあります。
■ものすごく腕の長い赤ちゃんが、地球にいたまま腕を伸ばして、1億5千万km先の太陽に触ったとします。神経が体内を伝わる速さは秒速28mなので、赤ちゃんが「熱い!」と感じるまでに170年かかります。
■月に行くのに、時速20kmの自転車で走り続けると約800日、時速200kmの新幹線だと80日かかります。太陽までは新幹線で80年です。
■太陽を直径2cmの球とすると、ケンタウルス座のアルファ星までの距離は東京からシドニーまでの距離と同等です。
■ケンタウルス座のアルファ星まで時速800kmのジャンボジェット機で580万年かかります。
■地球は1年かけて太陽を1周します。公転軌道は直径3億kmの円ですから、秒速約30kmで移動していることになります。また、地球の周は約4万kmで1日かけて自転しますから、赤道上では秒速約460mで回っていることになります。
■オリオン座のベテルギウスは直径が太陽の数百倍(千倍の説もあり)の超巨星で、太陽の位置に置くと地球どころか木星の軌道に達します。
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 とてつもなく壮大な宇宙に思いを馳せることにより、日頃の悩みなど吹っ飛ぶのではないでしょうか。小さな小さな人間でも、スケールの大きなことを考える能力はあるのです。

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